ビザンティン美術(1)

  東ローマ(ビザンティン)帝国ならびにこの帝国の文化を継承した国々の文化。
  本稿では、ビザンティン美術の主たる作品を年代順に取り纏めた。

1. ローマ、サンタ・プデンツィアーナ聖堂(The basilica of Santa Pudenziana)、4世紀。

     画像:後陣のモザイクは後期ローマ風。4世紀末。ラヴェンナ・モザイクに比肩される古代後期モザイクのなかで

     もっとも美しい作品の一つ。キリストの肖像としてはもっとも時代が早いので、人間らしく描かれている。

     画像:拡大写真


引用
キリストは宝石をちりばめた玉座に坐っている。着物は紫色の縁取りのある金色の緩やかな外衣(トーガ)である(皇帝の権威の印であり、キリストと彼の教会の権威を強調する)。彼は右腕を伸ばしていて、古典的なローマの教師の姿勢をとっている。キリストには光輪がつけられ、左手にテキストをもっている。「主はプデンツィアーナ教会の保護者である」という内容である。
 女性が二人(「教会」と「シナゴーグ」を表わしている)聖ペトロと聖パウロの頭の上に花冠をかざしている。彼らの上方には天国のようなエルサレムの屋根と丸屋根が描かれている(あるいは、エルサレムにコンスタンチヌス大帝が建立した教会群であるとする解釈もある)。

2. ローマ、サンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂(“Basilica di Santa Maria Maggiore”)、5世紀

     画像:サンタ・マリア・マッジョーレ聖堂、身廊、勝利門東面

説明
      5世紀のモザイク


 サンタ・マリア・マッジョーレ寺院のモザイク画は、ただ単に古代後期の素晴らしく美しい作品群ではない;それらはまた、古代末期キリスト教で聖母マリアのもっとも古い画像の一つである。ある学者が述べるに「これはローマのサンタ・マリア・マッジョーレの装飾によりよく論証されている。・・・ここでは聖処女マリアの図像的が選ばれたが、その目的は、少なくとも部分的には西暦431年の第三回全キリスト教会エフェソス公会議がマリアを(神の使者とする)テオトコス(Theotokos)であると確認したことを祝福するためであった。サンタ・マリア・マッジョーレの凱旋門と身廊のモザイク画は、その時代の印象主義芸術を定義するものであり、聖処女マリアの将来の表現のモデルとなった。これらのモザイク画のもたらした影響は、古代後期の印象主義に根ざしているものである。この古代末期印象主義は5世紀を通じて、アフリカ、シリア、シシリーの大邸宅全般に亘り、フレスコ画、写本の挿絵、沢山の舗装道路で見掛けられるものであった。

勝利門

            画像


説明
           勝利門のモザイク


 身廊の先端にある勝利門は最初は後陣門と呼ばれていた。しかし後に、勝利門として知られるようになった。この勝利門はキリストと聖処女マリアの種々の場面を描写する素晴らしいモザイクで飾られている。勝利門モザイクを身廊のモザイクと比較すると、使用されているスタイルに一つの差がある。;勝利門のスタイルはある学者が表現したように、ずっと直線的で平面的である。また、身廊の旧約聖書モザイクよりも行動、感情、動きが豊かである。勝利門に見られる最初の場面の一つは、一群の天使達を廷臣とするキリストの即位式である。ある歴史家が表現するように、:「後陣門でキリストは即位する。四人の侍従に付き添われた若い皇帝、勿論、侍従とは天使のことである。」これは5世紀におけるモザイク芸術の完璧なサンプルである。勝利門で見出される他のパネルは聖処女のものである。彼女は王冠を被り、色彩の美しいヴェールを身に纏っている。彼女の持ち衣裳がかすかに匂わせるのは、それがローマの皇后の服装であることだ。このパネルのなかで、彼女は彼女の神の子を彼女と一組のアングル族とともに一緒に歩かせている。ヨーゼフは彼女を、迎えいれようとしている。;「聖処女・・・モザイクの印象主義的性格の完成を示している。」もう一枚のパネルはマギの崇拝として知られている。このモザイクが示すのは、幼子のキリストと聖処女と三人の賢者達の到着である。「キリストの誕生と彼の青年時代を図解するモザイク画が勝利門を覆っている。他のパネルは聖処女が五人の殉教者達に伴われているところを画いている。

身廊

               画像:『西欧初期中世の美術』辻佐保子 小学館 1997, P7-32
               紅海を渡るモーセ
               ローマ、サンタ・マリア・マッジョーレ聖堂
               身廊側壁モザイク
               432-440年頃

 

 説明

 大聖堂の身廊は旧約聖書を表わすモザイクで覆われている。もっとも生き生きしているのはユダヤ人を引き連れ、エジプトを脱出し、紅海をわたるモーセである。「身廊のモザイクは(これは旧約聖書の歴史物語を顕わしているもので、従って、ローマのキリスト教徒に新しい過去を提供している)色彩溢れる印象主義的方法で幻想を掻きたてる性質のものである。」この学者が指摘するように、場面は動き、感情で充たされており、それはローマの「新しい」過去、すなわち、旧約聖書の過去、を鼓吹するものであった。場面を作り上げるのに用いられている細かい部分は、素晴らしい。ある学者はこう表現している。:「モーセは紅海の水を英雄的なジェスチャーで撃つ。彼の職服は、濃淡のある灰色と青色で、黒の縁取りが施され、襞は白線で、下着のチュニックは空色である;彼の隣の男は灰色と白のチュニックの上に濃紺の職服を着ている。もう一枚のパネルが示すのは、紅海のなかでのエジプト人達の死去である。あるオブザーバーがこのモザイクを描写して次のように言う。「青い鎧を着て、金のベルトを締め、緋色のマントを荒々しく翻しているエジプト人達は緑がかった青色の水のなかに溺れる;馬は、白色あるいは焦げ茶色の混ざった薄茶色で、白色のなかで光彩を放ち、従装具は輝かしい赤色である。

 

注:次の画像が参考になる。
      Santa Maria Maggiore
      Basilica di Santa Maria Maggiore

3. エジプト、聖カテリーナ修道院、6世紀

          画像:6世紀、ホット・ワックス・イコン
          聖ペトロ、シナイ山のセント・カトリーヌ修道院収蔵。6世紀の焼き付け画法(encaustic

 

      説明 

焼き付け画法のイコン
 焼き付け画法とは、蝋と植物性顔料とを高温で混ぜ、木材の表面に塗布するものである。この技法を使って作られたイコンはかなりの歴史的芸術的価値がある。この技法は芸術家が事前に木材パネル、あるいは非常に稀だが大理石パネル、上に対象物の下書きを作成する必要があり、それからまだ暖かい混合物をブラシか熱いアイロンを使って表面に塗りつけるのである。芸術家はそれから、特殊な道具を使い、塗布面に混合物を擦り込んで色を作って行く。混合物は物質の細孔のなかに深く浸透し、冷却後は色彩は剥がれなくなる。
 もっとも初期の時代のイコンは、この焼き付け画法で作成され、7世紀になって、セッコ(乾式フレスコ画法)あるいはテンペラ(卵白・にかわで溶いて描く)画法に切換えられるまで使われた。(エジプトの)ファイユームで大量に見出される有名な死者のポートレートはこの方法で作られたものだ。そして、セント・カテリーヌ修道院には多数の焼き付け画法(encaustic)のイコンが存在する。

               画像:6世紀。イコン、玉座に坐る聖処女とキリスト、ならびに聖人達と天使達。
 

               画像全能者キリストとして知られるもっとも古いイコン、木板上に焼き付け画法。
               救世主(全能者)キリスト。6世紀、焼き付け画法のイコン、シナイ山の聖カトリーヌ修道院。

               注意:画面が僅かにカットされている。

4. ラヴェンナ、サン・ヴィターレ教会のモザイク、6世紀

     画像:ラヴェンナ、サン・ヴィターレ教会のモザイク。描かれているのはユスティニアス帝とラヴェンナのマクシミアン司教。西暦550年頃。
     Justinian I (527–565)。東ローマ帝国皇帝でありながら、イタリア、北アフリカ、スペインの統治に努力した。

     画像:後陣の右側の壁のモザイクで、テオドラ皇后を描く。彼女は高級売春婦、女優、ユスティニアヌス1世の妻であった。


 ラヴェンナのサン・ヴィターレ・バジリカは司教マクシミアヌスによって建てられた。サン・ヴィターレの装飾には、ユスティニアヌスと彼の皇后、テオドラ、が含まれている。しかし、彼らのどちらもこの教会を訪ねたことはなかった。

 

 ラヴェンナの他の寺院:
   サンタポリナーレ・イン・クラッセ教会 549年頃
   サンタポリナーレ・ヌオーヴォ教会 496年頃
   正教(ネオニアーノ)洗礼堂 450年頃
これらのラヴェンナの6世紀寺院モザイクについては「旅路はるか」HPに精細な写真が掲載されている。ご参考まで。

5. ボーデ博物館、ベルリン (ラヴェンナのモザイク、6世紀)

     画像:2010/5/20撮影。Bodemuseum, Berlin

解説

 もともとラヴェンナのサン・ミケーレ・イン・アフリスコ教会にあったボーデ・ミューゼアムのラヴェンナ・モザイクは、西暦545年ヴィットーレ司教により献呈されたもので、547年に大司教マクシミアヌスによって聖別された。このモザイクが描くのは、中心にキリスト、そして両側に大天使ガブリエルとミカエルが従っている。ワインと鳩の装飾帯は12使徒を表わしていると考えられる。この聖堂は一人の銀行家、ジュリアーノ・アルジェンタリオによって資金が賄われ、元々は、大天使ミカエルへ奉納されたものであった。この教会はナポレオンの時代まで生き延びていたが、そのとき、教会は取り壊され、売られ、彼の徴発物の一つとなった。ヴェニスの聖マルコ大聖堂の青銅の馬も似たような運命に会った。ラヴェンナのモザイクはもともとの場所には決してもどされなかった。
 1843年、プロシャ王フレデリック・ウイリアム4世はなにか特別なものをこのモザイクに感じて、これを購入してドイツに持ってきた。160年後、このモザイクはボーデ博物館に過去のビザンティン時代の祈念碑として保存されている。
 ベルリンのラヴェンナ・モザイクで幾分残念なことは、両側の二人の聖人について起った出来事である。聖ダミアン(Damian)と聖コスムス(Cosmus)(医者)がモザイクの両側に描かれていた。だが、彼らの肖像画は完全に除去されてしまった。これらの像がこわされず、現在誰かの私的コレクションの壁に保管されていたらなあ、と思う。