ビザンティン美術(2)

6. メトロポリタン博物館(ビザンティン床モザイク、6世紀)

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          創成の擬人化した床モザイクの断片
          時代:500-550年、現代に修復
          文化:ビザンティン
          材料:大理石、ガラス
          大きさ:151.1 x 199.7 x 2.5 cm
          分類:モザイク
          クレディット・ライン:Harris Brisbane Dick Fund and Fletcher Fund, 1998;

          Purchase, Lila Acheson Wallace Gift, Dodge Fund, and Rogers Fund, 1999
          分類番号:1998.69; 1999.99

説明

 潤沢に宝飾品を身につけた女性の上半身像が、ある大きな公共建物の一部であった床モザイクのこの断片から見つめている。彼女の頭部の近くの部分的に復元されたギリシャ語銘から彼女はKtisisであることが判明した。Ktisisとは、一般的な寄付あるいは創建行為の擬人化用語である。寄贈者としての彼女の役割を誇張するために、彼女が手に持つのはローマ・フィートを測るための測定道具である。彼女の右側で一人の男があたかも贈り物をするかのように彼女に向かって豊穣の角(つの)を差し出している。;彼の頭の近くに「善」を意味するギリシャ語がある。もともとは同じような人物が彼女の左手にもあったように見受ける。そして彼の頭の側の印銘が説明文「祝賀(Good wishes)」を完成させていたのだろう。
 抽象的な理想を擬人化するという古典的な伝統はキリスト教の時代の間、地中海海盆の回りの多くの場所で継続していた。そこにはアンティオキア(現在のトルコのアントキヤ)、キプロス、北アフリカが含まれる。この床の断片図を形造っている注意深く配列され、サイズが整えられた大理石とガラスのテッセラ(角石)は西暦500年代のビザンティン世界全体を通じて作成された非凡なモザイクに典型的なものである。
 この博物館はこの二つの人物を別々に取得した。この二つは販売のために分割される前にもとの状態のまま撮影された古い写真がディーラーの保管室でみつかったので、それにもとづいて修復されたのである。

7. 聖ディミトリオス教会、テッサロニキのモザイク画、7世紀

 

 

 

 

 

 

ガレリウスの時代に殉教したローマ軍の軍人ディミトリオスの名前をとった聖ディミトリオス教会が5世紀に建設され、地震、火災を経て、20世紀に再建された聖堂が現在に残る。
祭壇に向って左側の柱に残るのは、7世紀に教会再建時に作られたイコン。いくたびもの偶像破壊運動をくぐり抜けて無事現在まで生き残ったのは、テッサロニキの市民の努力による。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

画像:2011/05/16撮影。「子供を連れた聖ディミトリオス」(7世紀あるいは8世紀初頭)。聖ディミトリオス教会、テッサロニキ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

画像:『初期キリスト教美術』ジョン・ラウデン、益田朋幸訳、岩波書店。2000。P167
94「聖ディミトリオスと2人の子ども」7世紀初頭、モザイク、テサロニキ、アギオス・ディミトリオス聖堂

 

 

 

注:(P147)726年(レオン3世による宗教画像禁止の勅令)から843年(コンスタンティノープル公会議で最終的に画像が認められる)にかけて、ビザンティン帝国はイコノクラスム(iconoclasm聖像論争/聖像破壊運動)と呼ばれる神学論争に巻き込まれる。

 イコノクラスムに関する史料を読み、ニケアやアギア・ソフィア大聖堂のモザイクを見て現代のわれわれは、ビザンティン帝国中で美術の破壊が徹底的に行われたように考えてしまう危険がある。あたかも警察国家のように。アギオス・ディミトリオス聖堂(図94)その他、テサロニキの聖堂に聖像論争以前の作例が残っていることからもわかる通り,それは事実ではない(これまでの章で検討した土地のいくつかはビザンティン支配ではなくなっていたので、イコノクラスムの波がおよばなかった。たとえばラヴェンナは751年にランゴバルド族に占領され、シナイ半島は630年代以来失われている)。アギオス・ディミトリオス聖堂は聖者ディミトリオスの聖遺物を擁する。6,7世紀に聖者に願をかけた信徒が奉納したモザイク・パネルが無傷で残っていて、そこには寄進者の姿が聖者とともに表わされている。パネルは見る者の手の届くところにあって簡単に壊されもしただろうに、それでも残ったということが興味深い(壊される代わりに白く漆喰を塗られたのだろう)。
(引用解説:『初期キリスト教美術』ジョン・ラウデン、益田朋幸訳、岩波書店。2000。P165)

 


 抽象的な神学論争をはしょって言えば、イコン支持派が考え出した理論は、おおむね次のようなものであった。神がキリストを通じて人の姿をとったように(これを「受肉」という)、本来不可視である神の姿はイコンを通じて可視となる。イコンを崇敬することは偶像崇拝でない。イコンはいわば「窓」であり、イコンを通じて私たちは天上の神の本質を礼拝するのである、云々。
 ともかくも一世紀余りの論争を経て、ビザンティン世界は再び教会を宗教美術で飾り始める。ただしイコノクラスム以後の美術には制限がついた。丸彫り彫刻は造らない。立体の像はどんどん人の姿に近づくし、偶像崇拝の危険があるから。絵を描くときも、キリストや聖人の身体を立体的に、三次元的に描くことは注意深く避ける。これも偶像崇拝を恐れるからである。ビザンティン美術に初めて接する人が感じる一種の奇妙な感覚はここに起因するのだろう。顔は古代ギリシア以来の端正な自然主義で描かれるのに、身体は妙に平面的で厚みが表現されない。
 うっかりすると、人はこれを「稚拙」「未熟」という語で片づけてしまいがちである。しかしこれは、ビザンティン美術が長い神学論争の果てに自ら選びとった、聖なる存在を造形するための意図的な工夫なのである。人の姿をしていながら、人を超えた聖なる存在を描くこと。ビザンティン美術が目指しだのは、ただそのことであった。
(引用:『地中海紀行 ビザンティンでいこう!』益田朋幸 東京書籍 1996 P24)

8. スイス、ムステイア修道院、8世紀

     画像:スイス、ムステイア修道院に保存されているカール大帝、カロリンガ王朝時代の壁画(絵葉書から)
     エジプトへの逃亡(北壁 32)
     Louise Gnädinger / Bernhard Moosbrugger
     “MÜSTAIR”
     Pendo verlag, Zürich 1994

9. トカル・キリセ(Tokalı Kilise)新聖堂、カッパドキア、920-40年頃

 

 

 

 

画像:『初期キリスト教美術』John Lowden 益田朋幸訳、岩波書店 2000, P196
108
最初の輔祭たちを叙任する聖ペテロ
920-40年頃
壁画
カッパドキア(トルコ)、ギョレメ谷
トカル・キリセ(Tokalı Kilise)新聖堂

注:
トカル・キリセ(ブローチの教会)
 ギョレメの岩窟教会の中でも最も豊富な連続壁画が残されているのが、このトカル・キリセ(教会)である。トカルとはブローチを意味し、現存しないアーチに描かれていた装飾からその名が付いている。創建は9~10世紀と推定され、2部屋を備えている。最初の部屋は丸天井のナルテックス(拝廊)で、「旧教会」と呼ばれている。次の部屋は手前に4本、奥に3本の円柱を置き、正面に後陣式壁がんがあり、更に脇に小さな間を備えたもので、「新教会」と呼ばれている。
 教会建造の直後に壁画も描かれ、920年頃には「旧教会」に「キリストの生涯」の連続壁画が描かれている。この素晴らしい壁画は29の場面から構成され、 当時としては珍しい「受胎告知」の場面から始まって、「長子虐殺」「ヱジプト逃避行」「洗礼」、数々の「奇跡」、「最後の晩餐」「ゴルゴダの丘」「磔刑」 「復活」と続いて「キリスト昇天」で終わる。
 「新教会」の壁画はそれから300年後に有名なニケポロスという画家によって描かれている。青地の背景に詳しい説明文が加えられたもので、こちらもキリス トの生涯から40のエピソードが選ばれている。旧約聖書や、柱頭行者聖シメオンをはじめとする聖人像やギョレメの共同体を指導した聖バシルの生涯も描かれており、一見に値する。

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 テサロニキの〈昇天〉と似た作例は、遠い辺境に残っている。小アジア中部(現トルコ)、カッパドキアの岩窟聖堂である。首都を中心にすればテサロニキとは反対のかなたであるが、帝国領ではあった。この地の柔らかい火山性凝灰岩は、水に浸食されて険しい谷を刻み、きのこ状の岩を突出させた。掘削は容易で、岩を掘ったスペースはあらゆる住空間、宗教空間に供される。聖堂建築のデザインは、単純な礼拝堂から、地上の建築を真似て、掘りだした柱で円蓋を「支える」立派な聖堂にまでおよぶ。こうした聖堂群の壁面はふつう漆喰で塗られて、壁画が描かれた(モザイク装飾はない)。問題の聖堂はチャヴシン近郊、ギュル・デレ地区のアイヴァル・キリセ〔マルメロの聖堂〕である(ギュル・デレ第4聖堂ないし聖ヨハネ聖堂とも呼ばれる)。銘文によれば聖堂は、皇帝コンスタンティノスの治世に聖ヨハネ〔おそらく洗礼者〕に捧げられた。このコンスタンティノスは多分7世で、そうだとすれば913-20年の建立である。アイヴァル・キリセから遠くないギョレメ谷には、トカル・キリセ〔バックルの聖堂〕と呼ばれる聖堂がある(おそらく聖バシリオスに献堂)。聖堂建設は2段階にわたり、どちらにも壁画が描かれている。第1段階は様式的にアイヴァル・キリセにきわめて近く、おそらくは逸名の同一画家による作だろう。もっと素晴らしいのは第2段階のトカル新聖堂と呼ばれる部分で、無数の聖者像とともに、キリストの生涯を描いた一連の説話場面を含む質の高い壁画が描かれている(図108)。
      (解説:『初期キリスト教美術』John Lowden 益田朋幸訳、岩波書店 2000, P194)

 

 トカル新聖堂本堂はおよそ10×5.5 m,天井高は7mを超え、堂々たる岩窟聖堂である。壁画の銘文によると、聖堂はニキフォロスという画家によって、コンスタンティノスなる人物とその息子レオンのために装飾された。聖堂は構築物ではなく、軟質の岩をトンネル状に掘り抜いたものにすぎないというのに、画家ニキフォロスには最高の素材を使う資金が与えられた。人物の光輪には金箔が、背景にはふんだんにラピス・ラズリが用いられている。貴石ラピス・ラズリを使えば,全体の費用は相当なものであっただろう。明らかにニキフォロスは地方の職人ではない。コンスタンティノポリスかテサロニキの立派な聖堂にふさわしい、首都の様式と技法を駆使する、才能ある芸術家であった。
 テサロニキやカッパドキアのこうした作例は、首都に発する様式と技法を反映していると考えられる。イコノクラスム以後の数世紀にわたってコンスタンティノポリスは、ビザンティン世界のどの都市とも比較にならぬほどに、富と権力を一身に集めた。職人やパトロンがいたるところからこの街に集まり、また首都の思想と図像はここから帝国中に広まったのであった。
      (解説:『初期キリスト教美術』John Lowden 益田朋幸訳、岩波書店 2000, P198)

10. アギア・ソフィア大聖堂、イスタンブール、10世紀初頭

     画像:2007/04/03撮影(図106)
     聖母子、ユスティニアヌス帝(左)とコンスタンティヌス帝(右)
     10世紀初頭
     南玄関扉口のモザイク
     イスタンブール
     アギア・ソフィア大聖堂

 第2のパネル(図106)の意味はこれに比べれば単純で、大きく記された銘文によって、見る者は画像の意味をはっきりと教えられる。聖堂内に入るとまず信徒は、坐像の〈聖母子〉と対面する。聖母子像はいろいろな点で、アプシス・モザイク(図99)と似ている。左右の大きなメダイヨンは、マリアが「神の母」であることを示す(MHPΘYは「神の母」のギリシア語略号)。幼児キリストは、右手で祝福の仕種をとる。向かって左(キリストの右側だからより高い地位を表わす)に位置するのは皇帝ユスティニアヌスで、アギア・ソフィアの大きな雛形を聖母子に捧げている。銘文には「ユスティニアヌス,輝かしき王」と記される。右に立つのはコンスタンティヌス大帝で、城壁に囲まれたコンスタンティノポリスの街の模型を手にしている。黄金門が十字架で飾られているのがわかる。銘文に曰く、「コンスタンティヌス、聖者のなかにある偉大な王」どちらの銘文の書体も、19世紀に部分的に修復されている)。ユスティニアヌスもコンスタンティヌスも、金銀糸で織られたロロスという幅広のスカーフ状の布を身にまとう。これは皇帝の装束である。両者とも髯はなく、髪型も似ている。前髪を短く垂らし、襟足を豊かな巻毛にする。こうした要素は、髯を生やし長髪にした同時代の皇帝の姿とは明らかに異なっている。
 ユスティニアヌスとコンスタンティヌスが聖母子に大聖堂と街を捧げた、というだけでなく、皇帝たちがキリストの恩寵を懇願している、というのがこの図像の第1の意味である。キリストはそれに応えているようだ。大聖堂と街は、神とその母と「特別な関係」にある、とここでも美術作品は語っている。持続ということもまた強調される。モザイクを見る者は、ユスティニアヌスが建てた大聖堂内に立ち、コンスタンティヌスが築いた街に暮らし、今も2皇帝の後継者が君臨する。キリストがかつて2皇帝を祝福したように、ひきつづいて大聖堂と街と皇帝に祝福が与えられる、とイメージは告げている。(P193)
      (解説:『初期キリスト教美術』John Lowden 益田朋幸訳、岩波書店 2000, P190)