ビザンティン美術(3)

11. オシオス・ルカス修道院、ギリシャ、1048年以前

画像:Google Map, 2016                画像:『初期キリスト教美術』John Lowden 益田朋幸訳、岩波書店 2000, P230
                               カトリコンと聖母聖堂
                               オシオス・ルカス修道院
                               10世紀末と11世紀初頭
                               東の外観

 西のナルテクスを通って、本堂に入る。ナルテクスの天井は階上廊があるために低く、まず信徒は強烈なモザイク図像に対面することになる。ナオスに通ずる扉口上に、〈キリスト・パントクラトール〉の大きな胸像が置かれているのである(図136)。手にする書物の銘に曰く、「私は世の光である。私に従う者は暗闇のなかを歩かず、命の光を持つ」(ヨハネ、8:12). その左右には、キリスト伝から〈磔刑〉(図135)と〈アナスタシス〉(図137)が並ぶ。
      (解説:『初期キリスト教美術』John Lowden 益田朋幸訳、岩波書店 2000, P231)

           写真:2011/05/19撮影。ナオスに通ずる扉口上の〈キリスト・パントクラトール〉

 オシオス・ルカスの「聖人伝」(ギリシア語でビオス、ラテン語はウィタ)は,953年の聖人没後10年ほどのちに書かれたものである。ルカスはこの地方出身の隠者で、晩年946年にこの地に戻ってきたらしい。奇跡を慕って、聖者の庵の近くに聖堂が建立された。費用を寄進したのはヘラス(今日の中央・東部ギリシア)のテマ(軍管区)司令官で、彼の邸宅はテーベにあった。この聖堂は聖女バルバラに献堂される。ルカスの没後、おそらく961年から966年にかけて、「美しきこと限りなき十字形のエウクティリオン[記念堂のこと]」が、庵の跡地につくられた聖者の墓を覆った。ルカスの遺徳を偲んで、皇帝ロマノス2世が費用を奉納したとされる。ルカスはクレタ島がアラブ人の手から奪回される(961年)ことを、皇帝に予言したのであった。30年ほどあと、おそらくロマノスの未亡人、女帝テオファノによって当初の聖堂が大増築され、パナギア(いとも聖なる)テオトコスに捧げられた。つづく世代、1048年以前に現在のカトリコンが建てられ、2つの聖堂はクリュプタと階上廊によってつなげられた。残念ながらカトリコン建造の正確な年代とそのパトロンは不明である。前代のパナギア聖堂に皇室がかかわった証拠はわずかなものにすぎないが、カトリコンにもいずれかの皇帝や女帝がかかわった、というのはありうることではある。
      (解説:『初期キリスト教美術』John Lowden 益田朋幸訳、岩波書店 2000, P238)

                        画像:『初期キリスト教美術』John Lowden 益田朋幸訳、岩波書店 2000, P231

               画像:『初期キリスト教美術』John Lowden 益田朋幸訳、岩波書店 2000, P236
               137
               カトリコン(主聖堂)のモザイク、(リンボへの降下)
               1048年以前
               オシオス・ルカス修道院
               アナスタシス

リンボへのこうか【リンボへの降下 Descent into Limbo】
聖書の正典中には明確に語られていないが、新約外典の《ニコデモによる福音書》に詳述されているイエス・キリスト伝中の説話。キリストは〈埋葬〉と〈復活〉の間に〈リンボ〉に降り、彼が福音をもたらす以前に生きた正しき人々を救い出して、天国に連れのぼる。なお,リンボとは〈縁〉を意味するラテン語のlimbusに由来し、地獄と天国との中間にある霊魂の住む場所をいう。リンボには、キリスト以前に死んだ義人の霊魂が住む〈父祖リンボ界limbus patrum,limbo of fathers〉や、洗礼を受ける前に死んだ幼児の霊魂が住む〈幼児リンボ界limbus puerorum,limbo of infants〉がある。

12. . 聖ソフィア大聖堂、キエフ(St. Sophia Cathedral)のモザイク画、11世紀

       画像:大天使ガブリエル
       聖ソフィア大寺院、キエフ、ウクライナ
       中央ドームのモザイク

画像:全能者ハリストス(Christ Pantocrator)
聖ソフィア大寺院、キエフ、ウクライナ
中央ドームのモザイク

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

画像:『初期キリスト教美術』John Lowden 益田朋幸訳、岩波書店 2000, P253

 

 聖ソフィア大聖堂はウクライナの首都、キエフの真中心にあるキリスト教の大聖堂である。ウクライナ最初の中央政権国家キエフ・ルーシ最大の聖堂として1037年に建立された。現代において、11世紀から18世紀までのウクライナ建築史上最も名立たる教会であるとされる。

画像

画像:キエフに残る最古の教会である聖ソフィア教会は1037年、賢明王子ヤロスラフによって建造された。ついでながら、彼はこの寺院内部に埋葬されている。彼はキエフ大公国のペチェネグ族(アジアの遊牧民)にたいする戦勝(1036)の土地を記念し、キリスト教の栄光を讃えるプロジェクトを興した。この教会は有名なコンスタンチノープルの聖ソフィア大寺院の名前を採った。堂々とした13個の丸屋根のある聖所はキエフ大公ヤロスラフ1世の宮殿に隣接し、キエフ人達の聖域、ならびに政治と文化センターとなった。内部はフレスコ画やモザイク画であふれており、その多くは1000年経った今も損われていないので、この大聖堂はキエフの普通の参拝者達に強い印象を与えている。

13. ダフニ修道院、ギリシャ、11世紀

画像:『初期キリスト教美術』John Lowden 益田朋幸訳、岩波書店 2000, P260/261

                                                           画像:Google Map, 2016

解説:Wikipedia

ダフニ修道院(ダフニしゅうどういん、希:Μονὴ τῆς Δάφνι/Δάφνιον)は、ギリシア共和国のアテネ近郊、ダフニにある中期ビザンティン建築の修道院。現在は中央聖堂のみが残る。中央聖堂は11世紀末の建設と考えられているが、修道院自体の設立は5世紀から6世紀の間と推定される。
11世紀のモザイクが残るたいへん重要な聖堂であるが、地震によって損壊し、現在は長い修復の最中である。1990年、他の2つの修道院とともにユネスコの世界遺産に登録された(登録名は「ダフニ修道院、オシオス・ルカス修道院、ヒオス島のネア・モニ修道院」)。

          画像:『初期キリスト教美術』John Lowden 益田朋幸訳、岩波書店 2000, P265/266
          156
          アンナの祈り
          ヨアキムへのマリア誕生のお告げ
          11世紀
          ナルテクスのモザイク
          ダフニ修道院

          画像:『初期キリスト教美術』John Lowden 益田朋幸訳、岩波書店 2000, P268
          157
          モザイク
          ダフニ修道院
          変容
          11世紀

14. コンスタンチノープルのソフィア寺院のビザンティン時代のモザイク画、12世紀

          画像:2007/04/03撮影。

 

説明

コンスタンチノープルのアヤソフィアに現存するビザンチン・モザイクのなかでもっとも有名なものが、南中二階の壁に観られる全能者ハリストス像である。キリストは聖母と洗礼者ヨハネに挟まれている。このモザイクは12世紀に作られた。

 

 

 

 

 

 

 

画像:2007/04/03撮影。(図212)
聖母子、ヨアンニス2世とイリニ
南階上廊のモザイク
1122-34年イスタンブール
アギア・ソフィア大聖堂

引用:『初期キリスト教美術』John Lowden 益田朋幸訳、岩波書店 2000, P351


 コンスタンティノポリスに残る唯一の12世紀のモザイク作品は、アギア・ソフィア大聖堂にある(図212)。南階上廊、〈コンスタンティノス9世モノマコスとゾイ〉(図145)に隣接するパネルである。 11世紀のパネルと同じく,皇帝(この場合はヨアンニス2世コムネノス)が金袋(アポコンビオン)を持ち、女帝イリニが巻物の書類を手にしている。ヨアンニスに付せられた銘はコンスタンティノス・モノマコスと同じ形式、「神なるキリストにおいて敬虔な王(バシレウス)にして、ローマ人の皇帝(アウトクラトール)」で、これに「ポルフィロゲニトス」の語を加えている。「紫室生まれの」を意味するこの語は、彼が在位中の皇帝の息子として生まれたことを示す。父はほぼ12世紀中ビザンティン帝国を治めることになるコムネノス朝の創始者、アレクシオス1世コムネノス(在位1081-1118年)であった。立像の聖母子の右には、女帝イリニがいる。「もっとも信心深いアウグスタ〔女帝〕」という称号は、女帝ソイのものに等しい。そのさらに右側にもモザイクはつづいていて、やや不自然に角柱側面に夫妻の長男が描かれている。・・・・・

15. ウラジーミルの聖母、12世紀初頭

                                画像:«ウラジーミルの聖母»
                           12世紀初頭
                           コンスタンチノープル
                           木板、テンペラ 104 x 69cm
                           V.ロジオノフ
                           『国立トレチャコフ美術館』 P-13 2003

 ルーシ(訳注:ロシアの古称)がキリスト教を受け入れた時、寺院をフレスコ画やモザイクで装飾し、イコンを描くという伝統がビザンチンから伝わった。現在まで伝わるビザンチンで制作された作品のうち、«ウラジーミルの聖母»(12世紀初頭)は、国の聖宝となっている。この絵はユーリー・ドルガルーキー公の治世にルーシに運ばれ、キエフ郊外のヴィシュゴロドの女子修道院に安置された。ウラジーミル・スーズダリの土地の昇格に伴い、1155年、アンドレイ・ボゴリュブスキー公が、後にウラジーミルと名づけられることになる土地へこの絵を移した。1395年にチムールがルーシに来襲した時、この聖画像はモスクワに移された。すると、敵軍はかなりの優勢にあったにもかかわらず、戦わずして退散したのであった。母の顔に自分の頬を優しく押し付けている幼子キリストを腕に抱いた聖母像は、聖像学上「ウミレーニエ(感動)」と呼ばれている。高い精神性、聖画の室の高さ、ロシア史上奇跡をもたらした像としての特別な役目から、«ウラジーミルの聖母»像は完璧な聖像の手本となりルーシで最も崇拝される像の一つになった。現在この聖像画は、トルマチのトレチャコフ美術館付属聖ニコライ聖堂博物館に安置されている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

画像:2005/06/26撮影。トレチャコフ美術館付属聖ニコライ聖堂博物館

 

 なお、トレチャコフ美術館には、ロシアのイコンの天才、アンドレイ・ルブリョフの最高傑作が収蔵されているから、見落とさないこと。

               画像:至聖三者(聖三位一体)、アンドレイ・ルブリョフ(Andrei Rublev)1410年頃、
               トレチャコフ美術館

解説

 Andrei Rublev(1360年頃-1430年)はロシアの修道士、15世紀ロシア、モスクワ派(ルブリョフ派)における最も重要な聖像画家(イコン画家)のひとりである。
 1405年頃修道士となりアンドレイの名を用いるようになった彼の作品のうち、もっとも重要なものは、創世記17章に材を取った『至聖三者』(聖三位一体)のイコンである(114cm×112cm、板、テンペラ)。 アブラハムの許を3人の天使が訪れたという旧約の記述は、古くから正教会では「旧約における至聖三者の顕現の一つ」として捉えられ、アブラハムとサラに よってもてなされる3人の天使の情景はイコンにも描かれてきたのであるが、3人の天使の情景のみが取り出されて描かれているのがこのイコンの新しい特徴で ある。
 この作品はもともと知人である修道士の瞑想のために描かれたものであったが、後に(1511年頃?)ロシア正教会は教会会議でルブリョフの図像を、三位一体の唯一正当な聖像として認めるようになった。