宮崎旅行3 飫肥

2019/01/27

 

 

飫肥城

 

画像:飫肥城大手門

 

 

 駐車場で観光バスを降りて数分歩くとこの大手門に着く。あとで考えると、この大手門が飫肥という街のシンボル的存在で、この写真を眺めても、その美しさは抜群で観光客を思わずハッとさせる。街の全体をシンボライズする石垣の美しさもさることながら、この大手門の建築学的な美しさ、門の持つ威厳が感じられるからだろう。実質的にわずか5万石の城下町と思えない威厳がただよっている。勿論戦災に会っていないから江戸時代の雰囲気がそっくり今に残っているのだろうけれども、美しいのは大手門にとどまらない。

 

画像武家屋敷通り

 

 大手門の前から右手東方に進むと、武家屋敷通りと呼ばれる横馬場通り(よこばばどおり)があり、かつては900坪ほどもある高級家臣の屋敷が並んでいたという。今でも苔むす石垣や風雅な武家門などが並んでおり、その景観は城下町・飫肥の象徴となっている。(説明

 

 写真:武家屋敷通りのレストラン「飫肥服部亭」の素晴らしい庭園。幕末頃は「右松半兵衛」亭で、百石取の上級藩士の家だった。明治廃藩置県の頃、飫肥本町商人服部新兵衛氏が買い取った。彼が二階建てとし、倉も建て、大幅に改築したものと思われる。

 

 写真:服部亭での昼食。食べかけの写真で申し訳ないが、刺身が美味しかったので食べちゃったあとで、茄子の餡かけや、茶わん蒸しが持ち込まれたのだ。

 

 武家屋敷通りを端っこまで歩くと左側に伊藤伝左衛門宅がある。

 写真:旧伊藤伝左衛門宅 庭園入り口

 

 写真:実に美しい雛壇が展示されていた。手入れの良い雛壇だ。一軒の家に雛壇が

二つも三つも展示されている。

 

写真:庭園の奥には蘇鉄が植えこまれている。石組みが負けそうな具合。だけどどこをとっても奥床しい感じが漂う。左側奥のガラス張りの建物は裁判所。

 

画像:これなんという植物だろう。南国風で美しい。実が葉の下に垂れ下がって

いるから「万両」でしょうね。(説明

 

 

 

 1時に大手門前でボランティアの方と落ち合い、しっかりと観光案内をうけました。それにしてもこの宮崎観光バスは、私たちが支払った観光バス費用が¥5000なのに、服部亭での昼食¥1650、入場料¥600が込みだというから驚きです。大幅に足がでていると思います。

 

 

 その他の説明についてはWikipediaの説明を読んで頂きましょう。

               飫肥城

               小村寿太郎

画像:小村寿太郎 写真出典

 

  小村寿太郎という人は明治8年(1875年)に第1回(明治8年)文部省派遣海外留学生に選ばれ、ハーバード大学に留学したのだそうです。こんな日本国の端っこの田舎からボストンに出たのですね。ウイリアム・ジェイムズがアメリカでは初めての心理学の実験所を設立したのが同じ1875年で、米国の心理学の祖となった年です。彼がハーバード大学の哲学助教授になったのが1880年ですから、小森寿太郎はアメリカという国の学問の創成期に滞在していたのですね。

 

 飫肥の街の大手門のすぐ前に小村寿太郎記念館がありますから、是非訪問されるようお勧めします。

 

 

 

 付け足しですが、

 

画像:油津 堀川運河 

説明

 

弁甲(べんこう)筏流し

 

この地方の飫肥杉(おびすぎ)は耐水性と弾力性に優れ、弁甲(べんこう)と呼ばれる造船材として重宝されてきた。江戸時代中期から盛んに杉の造林が行われ、全国でも有数の林業地帯として名を馳せてきた。

 

近隣の山々から切り出された木材は筏に組まれ、弁甲筏流しと呼ばれて酒谷川や広渡川を下り、一旦海に出てから油津港(あぶらつこう)に集められ、弁才船(べざいせん)で大坂、江戸方面に出荷された。

 

油津地区にある堀川運河は、第五代藩主・伊東祐実(いとう・すけざね)が建造させたもので、一旦外海に出なければならない不便さを解消し、木材を安全・安価に油津港に出せるようになり、藩の財政を大いに潤したという。

 

 

 

 飫肥の街の中央にある本町には豪商が住んでいたようですが、そのうちの一人が先ほど昼食を食べた服部亭の服部新兵衛(山林業)でしたから、彼も弁甲筏流しで飫肥杉を油津に着け、大阪・江戸に船積みしていたのでしょう。油津には次回是非訪問したいものです。