臼杵を観光する(5)

2020/03/06

 

 

 今臼杵の街を観光するには、臼杵駅前から臼杵停車場線を真っすぐに歩き、万年渓と称する川を渡り、巨大な鳥居のある角を左に折れて港町商店街を約500m歩き、街の中心地である「辻」へ来る。すると突然、こんもりとした丘陵の上に櫓と櫓を結ぶ白塀が見える。これが歴史書で云う丹生島(にうじま)城址である。

 

画像:GoogleMap,2020 臼杵城址(丹生島城址)

 

画像:寛永臼杵城下絵図『臼杵の近世絵図』2018/01/09 臼杵市教育委員会 P1

 

 

 コロナウイルスの影響で閉館している臼杵市歴史資料館だが、油布博明さんにお願いして『臼杵の近世絵図』という本を郵便で送っていただいた。寛永臼杵城下絵図(寛永4年(1627))が臼杵のもっとも古い地図のようです。

 

1627年といえば、関ヶ原の後、大友一族が滅亡して稲葉家が入城したあとですが、御覧の通り、丹生島城は海のなかに孤立しています。周辺海域の埋め立ては明治半ばに行われ、それまでこの状態が続いたのです。

 

 

 

この地図を部分拡大してみると、

 

 

 赤印をつけた地点が、前節(4)で述べた「石敢當」と書いた大きな石塔がある場所で、臼杵の目抜き通り本町の八町大路ですから現在の街並みと変わりません。地図の左側が臼杵川です。現在の臼杵川よりも川幅が広いです。右上に臼杵城の一部がみえます。

 

画像:「臼杵城跡」臼杵市教育委員会 文化・文化財課 発行

 

 

 私は臼杵石仏巡礼を行ったあと、タクシーで城址に登り、短時間見物しました。昔、大友宗麟が屋敷を構えた址にフランキ砲が設置されています。

 

写真:2020/03/06撮影。

 

 

 靖国神社に保存されている佛狼機砲の実物は

 

画像:靖国神社遊就館の佛狼機砲(国崩し)

 

 

 この砲が実際に使われたことがあります。

 

天正14年(158610月、島津軍が豊後に乱入。このとき宗麟は56歳、死の前年であった。このときの臼杵の戦況を、狭間久著『豊後大友物語』大分合同新聞社 昭和48年(P471)から引用しましょう。

 

 

 

 宗麟大砲をぶつ放す  

 

臼杵へは白浜周防守、野村備中守、伊集院美作守のひきいる二千余が攻め込み、 十二月五日、平清水に陣を敷き、兎居島(大橋寺付近)の木かげ岩かげにひそんで城中をうかがった。宗麟は家臣の武宮武蔵守に命じて、最後の切り札ともいうべき大砲(大石火矢)の使用を命じた。大砲は宗麟が先年ポルトガルから入手したもので、“国崩(くにくずし)”と命名、実戦で使うのは初めてだった。

 

 武宮は火薬一貫目ほどを込め、大玉、小玉二升ばかりをつめて点火。天地をとどろかすごう音とともに日本で初めて大砲が火を吹いた。町の入り囗の大木に大玉は命中、付近に伏せていた島津兵は大小の玉に当たり、大木に押しつぶされ、多くの死傷者を出したという。この未知の新兵器に島津軍もひるんだ。そこへ大友軍がどっと切り込む。古庄丹後入道、葛西周防入道らは兎居島の島津軍を破り、吉岡統増らは二王座で島津軍を撃退、平清水の島津の本陣へは柴田礼能、臼杵鎮順らが切り込んだ。

 

 この合戦で柴田礼能は討ち死に、父のカタキを討とうとして礼能の子統勝も戦死した。柴田礼能は野津にキリシタンを広め教会を建てたレアンのことと思われる。宗麟の信任厚い側近だった。ちなみに島津方へ寝返った柴田紹安は礼能の一族。礼能は紹安を討って汚名をそそごうと島津の陣営へ討ち入り、戦死したともいわれる。

 

 とにかく島津軍は大砲の威力や大友勢の気迫に押され、敗走した。

 

画像:GoogleMap, 2020 一部改変

 

 

 GoogleMapには当時の地名である平清水、二王座が残っているから、島津軍の進撃態勢も想像することができる。島津軍は平清水に本陣を構え、兎居島に先陣を置き、切通しのある二王座を兵で固め、宗麟軍を孤立させ、逃げ道を完全に封鎖した。

 

画像:臼杵城下絵図(寛永13~20年(1636~1643))『臼杵の近世絵図』臼杵市歴史資料館 平成30年 P2

 

 

 こうして宗麟は彼の目論み通りしぶとく生き残った。宗麟が天正143月大阪城で助力を求めた豊臣秀吉は、翌天正15年(15873月九州に入り、57日には島津義久が頭をそって降伏した。

 

 豊後の大友家は丹生島にうじま城に据え付けられていた佛狼機砲により辛うじて命脈を保った、と言えます。

 

 

 

 

PS

 

 大分合同新聞社刊『豊後大友物語』(昭和48年発行)を書いた挟間久はストーリーテラーとして秀逸。田北学氏の収集した資料に基づくものらしいが、内容は完璧。一読をお勧めする。

 

 

PS2

 

 『豊後大友物語』を読み終えてからの私の読後感だが、私なら「ポルトガルの宗教使節の裏側」を調査するだろう。ザビエルの使節は、1に宗教使節であったが2に貿易商であった。彼らが日本からの輸出品目「銀」を動かした。勿論日本への輸入品目「鉄砲と大砲と火薬」も組織的に動かした。なにが大友宗麟と豊臣秀吉の財力を支えたか、ポルトガルに残されている宗教使節の資料を読み終えれば、日本の中世を解明するうえでの画期的な目線が浮き出されることだろう。(P207/279/299/350/359/388参照のこと)

 

 

PS3

 

 大友宗麟像、大分駅前