豊後森

2022/02/26

 

 昨晩から考えていて、別府市の森藩別邸を解説するのに、その本家の豊後森を訪問していないのはおかしい。ぜひ豊後森を事前に訪問しておくべきだ、と考えて、翌日26日は土曜日だが、思い切って訪ねてみよう、と決断した。

 

 事前にパソコンでざっと時間割をつくり次の通りとした。

 

                 8:22 別府白菊前             ―― 9:12 湯布院BT     バス

                 9:20 由布院駅                 ―― 9:58 豊後森駅        JR

                                                  (森藩旧跡巡り)

                 12:07 豊後森駅                  ―― 12:33 湯布院駅 湯布院の森3号 JR

                 12:45 湯布院BT                   ―― 13:36 別府駅西口  バス

 

 

 私は老人だからすぐ疲れて、行動に支障が生じるので、動き回るのは午前中一杯とすることにした。

 

 

 途中の豊後中村駅で、対向車の到着を待つ。対向列車は久留米発湯布院行のディーゼル車二両。天気は快晴。

 

https://youtu.be/tPGKynNzfhA

 

 

 久大線というのは久留米と大分を結ぶJR線で、九州を横断するJR線の一つ。

 

 

 上の図では森駅は示されていないが、日田と湯布院の中間の駅である。筋湯1 筋湯1 - dousan-kawahara ページ! (jimdofree.com)で説明したように、この路線の普通列車は湯布院起点の大分行と久留米行の二本に分かれている。赤い色のディーゼル車で運行されている。

 

 

 私の乗った由布院駅9:20発もこの普通列車で、一車両のみののんびりしたローカル線だった。

 

 

 この写真には写っていないけれども、この車両の後部には巨大な便所が設えていて、全行程2時間ほどの旅行に困ることはない。御覧のように床もピカピカで、清潔感この上ないありさまだ。一言でいえば、「快適」だ。

 

 なにしろ平生別府でしんねりむっつり暮らしているものだから、こうして旅行にでること自体が大きな刺激になり、楽しくて仕方がない。

 

 

 列車が森駅に入る直前の左方に大きな機関庫と蒸気機関車が見える。

 

 

 森駅の位置が久大線のちょうど真ん中にあたるものだから、昔は機関車の操作はここで行っていたものだろう。京都の梅小路操車場京都・サンフラワー号(3) - dousan-kawahara ページ! (jimdofree.com)の小型版である。

 

 

 さて、森駅に到着した。この久大線はスイカが使えない。いちいち窓口で切符を買わなければならない、のがまた楽しい。

 

 

 予定では豊後森滞在時間はたったの2時間だから、いそいで行動しなければならぬ。

 

 

 森駅の写真。タクシーが一台止まっていたが、私がもたもたしている間に消えてしまった。

 

 

 バスの都合はどうかと言って探したら、バスの時刻表はこれ。

 

 

 これを読もうとしても、周辺の地名が頭に入っていないから、この時刻表はまったく役に立たなかった。

 

 

 駅前のお店の女将に頼んでタクシーを呼んでもらい、玖珠町の北にある末広神社に出かけた。

 

 

 久留島時代(江戸時代)の豊後森の街の中心は豊後森駅の北2kmほどのところにあり、歩けば歩けないことはないものの、時間に限定があるものだからタクシーに頼った。到着時駅前にいたタクシーは消えてしまったし、仕方がないので駅前の店に頼んでタクシーを呼んでもらった。

 

 

 上の地図でお食事処金太郎と書いてある細い通りがこの街の目抜き通りである。玖珠銀座というところか。

 

 

 手前の石像は童話作家久留島武彦。手前の家並みに見られるように白壁塗装をして昔風に見えるように細工がしてある。中身は何も無しのようだ。

 

 

 タクシーは清水御門に着いた。

 

 

 

清水御門

 

 

 これは末広神社の裏門にあたる。

 

 

 小さい池をまたいで石橋が架けられており、そこから非常に急斜面の石段があるが、あまりに急斜面であるから、杖を突いてのぼるのは危険だと判断して止めた。

 

 そもそもこの神社の背後の山の頂上に角牟礼城(つのむれじょう)というお城があったのだそうで、(今は石垣以外なにも残っていないのだが)、(注:角牟礼城跡 (kusumachi.jp)標高576m)この城を鎌倉時代の初め、1280年に築いたのが森朝通という人で、だから後世この城を森城と呼び、国名を森藩と呼ぶようになったのですね。了解。

 

 

 そこで一旦タクシーで回り道をして神社の東側から登り、玉濃井の井戸に出た。

 

 

 玉濃井(たまのい)という名前の井戸。右が桜の馬場。桜の頃が美しい、という。これで神社の東側に出た。