棟方志功3

2022/01/16

 では、本論に入ります。

 

 『わだばゴッホになる』と18歳のとき棟方志功は自己宣言したのですが、果たしてこの宣言は全うされたのか否か、という問題です。

 

 

 まず、ゴッホの絵を何点か掲げておきましょう。これらの画像はすべて、フィンセント・ファン・ゴッホ - Wikipediaから借用しました。

 

 

1.ジャガイモを食べる人々18854-5月、ニューネン。油彩、キャンバス、82 × 114 cmゴッホ美術館

 

 

2.ひまわり18888月、アルル。油彩、キャンバス、92.0 × 73.0 cmノイエ・ピナコテークミュンヘン

 

 

3.星月夜18896月、サン=レミ。油彩、キャンバス、73.7 × 92.1 cmニューヨーク近代美術館

 

 

4.カラスのいる麦畑18907月、オーヴェル。油彩、キャンバス、50.5 × 103 cm。ゴッホ美術館

 

 

 皆さん、よくご存じの絵ばかりです。

 

 ところで、棟方志功が見た途端にゴッホの絵画手法を理解したのは、このうち2. の「ひまわり」です。

 

 フィンセント・ファン・ゴッホ - Wikipediaを御覧いただくと、御了解いただけると確信していますが、ゴッホが「ひまわり」を描いたのは18888月のことで、世に言うアルル時代です。ゴッホが35歳のときです。

 

 この生命の燃え上がるようなヒマワリのスタイルは、ゴッホがアルルに到着してから、開始されたものです。

 

 いままで誰も断定した人などいませんが、筆者はゴッホが神秘体験Aに到達したのは、1888年初頭、アルルに於いてだった、と断定します。

 

 

 なぜかって? それまでゴッホは1. 『ジャガイモを食べる人々』の絵のような全く光の射さない暗い絵ばかりを描いていたのですが、

 

 

アルルに到着するやいなや、「ひまわり」のような光彩あふれるゴッホらしい絵を描き始めたからです。これが1888年のことです。

 

 ゴッホは188835歳になるまで神秘体験Aに到達できなかったのです。だから、神秘体験に到達するや否や、ゴッホは多数の光彩ある絵を猛然と描き始めました。

 

ですから、神秘体験Aに到達した年齢時期からすると、ゴッホは棟方志功に遅れをとっています。

 

     ゴッホ 35歳  <  棟方志功 12

 

という公式が成立します。棟方志功のほうが精神覚醒の時期が早かった、といえます。

 

 2. の「ひまわり」では、神秘体験Aで感じられる生命の持つ“光“が表現されており、3.の「星月夜」では神秘体験で感じ取れる“生命のゆらぎ”が表現されています。つまり、(光とゆらぎから成る)「生命」がうまく表現されており、これを理解した棟方志功が表現の技法を習得できたことに狂喜したわけです。

 

 

 あなたも神秘体験Aを経験してごらんなさい。私の申し上げている意味が分かるようになりますから。

 

画像:『棟方志功』新潮日本美術文庫 44 日本アートセンター、1998

画像:同上。

 

 では次に、棟方志功が神秘体験の神髄をどうとらえたか、という点を掘り下げておきます。

 

棟方志功は『棟方志功 わだばゴッホになる』P144 大乗涙のなかで次のように説明しています。

 

 この文章は、棟方志功が(何時の事かはわからないけれども)上野公園日本美術協会展覧会で敦煌の美術・石像を拝観したときに書いたもので、棟方志功が感受した“美の根幹”を表現している、と私は考えます。

 

 

 

これらの展覧物に接して、棟方志功は、自分自身の作品の表現のあるべき姿は次のようなものだとしている。自分の版画で表現すべきぎりぎりの極点は次だ、と指摘している。

 

『棟方志功』「わだばゴッホになる」 日本図書センター、

1997P145「大乗波」より抜粋。

 

 私はあの展観に接して此の仕事は、血を祭る礼儀の様な気持ちから生まれて来て居るとまで考えた。血祭なのだ。

 

 本当本当に想い届く限りの湿りは血の湿りなのだ。

 

 ああ謂う淋しさも哀しさも亦憂えも知らぬ仕事は、笑や力に仕遂げられて行くばかりの仕業なのだ。外にも底にもどの場合、どの結果にも濡れ事がないのだ。決定したる一定の仕業なり(“仕業なり”の四字、強調点ルビ付き)が出来されて仕舞う、素晴らしい力の全部なのだ。

 

 ああ謂う仕事に流れて居る永劫なる血の存在は生き、生きて居るのだ。あの会場(上野公園日本美術協会展覧会々場)に血の雨を降らせ、肉の千切れを飛ばせている敦煌の吐く息は無限な生な匂いを散らして盛んだ。

 

 あの美しさは生命の持つ美しさと謂えよう。それ程、正しい美しさの根源に生きているのだ。

 

 絵であれば、線が血脈の様に腥(なまぐ)さく騒いでいるし、点が血管の切口の様に険しく噴き上っているのだ。布置された色彩は、永遠に化けて燃えつづける冥界の燈し油の様に妖しいのだ。それ等線点、彩置に私は最も偉大な絵画を観るのだ。

 

 上の文章から読み取れるように、彼は「美の根源」は「生命」だと主張している。はっきりしている。

 

 つまり、棟方志功が12歳のときに感得した「美の根源」はゴッホの表現する「ひまわり」「星月夜」と同等である、と棟方志功は述べている。つまり

 

                 棟方志功の「美の根源」                ゴッホの「ひまわり」「星月夜」

 

という等式が成立する。そして、ここに表現されるのは、「生命」だと棟方志功は言っている。この断定に筆者も賛同する。

 

 

 

 

 ところがところがである。こう考えたときに問題がひとつ残される。

 

 

4. の「カラスのいる麦畑」である。これは18907月、彼の拳銃による自殺の直前に描かれた作品である。この作品には希望の光など微塵もない。ゆらぎもない。この絵が暗示するものは、「死への道筋」であり、群れ飛ぶ黒いカラスが暗示するような不吉で残酷な終末と「永遠の苦しみ」である。

 

 棟方志功の画冊からは、このBが欠落している。棟方志功には初めからBの経験などなかったのである。ここに棟方志功とゴッホとの基本的な相違点がある。

 

 

 こうして、「わだばゴッホになる」との誓約は、未熟な棟方志功の思い込みにより、いとも簡単に破られてしまったことになる。

 

 

つまり、棟方志功は神秘体験A onlyというストレート・タイプの人間なのだが、ファン・ゴッホは違う。ファン・ゴッホは神秘体験B after Aタイプなのだ。はじめに喜悦の感情を伴うA体験を享受するが、その後になって、苦しみの極致であるBが来て、のたうち回る。これを乗り越えることができれば釈迦になるが、決着がつかなければ泥沼のなかで死ぬ。その死にざまは、無様(ぶざま)だ。(参照:体験の履歴によるcategorizationについては体験の履歴による (lcv.ne.jp)を参照してください。)

 

注:上の記述をすべて綜合すると、ゴッホにBが到来したのは18906月末であると考えられる。

 

 

画像: 棟方志功 飛神の柵(御志羅の柵)1968 一般財団法人棟方志功記念館蔵

 

 奇怪さからいえば、この板画が優れているが、飛神(とびがみ)の柵(御志羅の柵)で説明されているように、この板画は青森の御志羅(おしら)樣のプリミティブな生命力なのだそうだ。Bではない。

 

 

 

私の感受性から判断すると、ゴッホはこの時点で、人間が背負っている「地獄への道」を進み始めたのだ。この過程が棟方志功にはない。

 

 

ゴッホはなんとかこの(Bという)泥沼を脱出したかった。だが彼にはできなかった。耳も切った。ピストルも持ち出した。だが、彼はどうしてもこの泥沼から脱出できない。

 

傷は銃創であり、左乳首の下、34 cmの辺で紫がかったのと青みがかったのと二重の暈に囲まれた暗い赤の傷穴から弾が体内に入り、既に外への出血はなかったという。両名は、弾丸が心臓をそれて左の下肋部に達しており、移送も外科手術も無理と考え、絶対安静で見守ることとした。

    (引用:フィンセント・ファン・ゴッホ - Wikipedia

 

 こういう結果を招来する神秘体験Bを棟方志功は持ち合わせていない。「わだばゴッホになる」と言っても、それはできない相談だ。

 

 

 では、B after Aをどうやったら脱出できるのか? これにはちょっとしたコツがあるのだが、西洋人には成功例が少ない。私の知る限りでは、そのコツを持ったのは、イエス・キリストとアヴィラのテレサとジョン・ロックの三人だけです。一方、アジア人には釈迦を初めとする数多くの人たちがいます。安心してください。私は『正覚のとき』正覚のとき でその方法を詳しく解説しています。

 

 では皆さま、どうぞ御機嫌よう。