捕陀洛山寺

2022/07/06

実際の訪問は2006/04/06です。

 

 

 私は新宮から国道42号線に乗って降りて来て、JR那智駅で43号線(那智勝浦古座川線)に乗り換えたら、すぐそこが捕陀洛山寺でした。

 

 がらんとした空き地にポツンとお寺が建っていました。

 

 

 左手の建物のなかに、渡海船が飾ってあります。

 

 

 小舟の上に小屋が作られてあって、渡海者はこの小屋に入り、入り口を釘でうちつけてもらって、外に出れないようにし、西方浄土へ旅立っていったのだそうです。

 

 「南無阿弥陀仏と唱えれば、かならず極楽浄土へ行ける」と私も信じていて、先日三千院へお詣りにいった際は、私自身の極楽浄土行を念じてお詣りをした(京都・サンフラワー号(2) - dousan-kawahara ページ! (jimdofree.com)を見よ)ばかりなので、他人様のことはとやかく言える義理合いはないのですが、さすがの私も、この船を見たときは、「人生も末まで来たな」と観念しました。

 

 

 平安時代の人たちの考え方については補陀洛山寺 - Wikipediaを読んで、「ポータラカ」=捕陀洛=極楽という考え方を理解しましょう。

 

 

 だが現代でも、老人は、腰が立たなくなれば、老人ホーム(=動かない霊柩車)にわざわざ一時金一千万円か二千万円を支払って入居するのですから、平安時代の渡海者たちを笑ってはいけません。経済的合理性を考えれば、平安時代のほうが合理的であったような気もします。平安時代でも現代でも、「死」とは「選択の自由が存在しない」到来物ですからね。

 

 では、選択の自由が存在しない到来物をどうやって避けるかって?

 

 

 「死」を避けることなんてできる訳はありませんが、次善の策として、私は毎日、山の中を2時間歩いて足腰を鍛えるようにしています。お蔭様で、先日金刀比羅宮を参拝したときは、標高差163mの階段785段を難なくこなしました。私の次の目標はクラブツーリズムR9008-923のニセコ五色温泉中級ハイキングー標高差300mです。最終目標は富士山登山なのですが。うーん、何と言ったらいいのかな? つまり、語弊があるかもしれないけれど、「ピンコロ」を目指しているのです。

 

 

 捕陀洛山寺本堂です。

 

 

 お隣に、熊野三所大神社(浜の宮王子)があります。これはお寺ではなく、神社なのです。

 

 神仏習合 - Wikipediaという言葉があって、これには

 

日本に仏教が到来した当初は「仏教が主、神道が従」であり、平安時代には神前での読経や、神に菩薩号を付ける行為なども多くなった。日本で「仏、菩薩が仮に神の姿となった」とし、「阿弥陀如来垂迹すいじゃく)を八幡神」「大日如来の垂迹が伊勢大神」とする本地垂迹説が台頭し、鎌倉時代にはその理論化としての両部神道が発生した。一方、神道側からは「神道が主、仏教が従」とする反本地垂迹説が唱えられた。

 

と書いてあります。すなわち、平安時代から、熊野信仰によって神仏習合は加速されたようです。

 

 

 私が今現在居る此処はまさに熊野信仰の中心地点なのですが、ここでは

 

                 熊野速玉大神                    薬師如来

                 熊野夫須美大神                千手観音

                 家津美御子大神                阿弥陀如来

 

であると考えられているのです。

 

 

  詳しくは熊野速玉大社で頂いた次の説明書を読んでください。

 

 

 そういえば、この捕陀洛山寺の裏山には維盛の供養塔があるのでしたね。

 

 

平重盛の嫡男であった維盛は、富士川の戦い・倶利伽羅峠の戦いの二大決戦で壊滅的な敗北を喫し、平氏一門が都落ちしたのち、一ノ谷の戦いの前後、平維盛は陣中から2人の従者とともに逃亡し、戦線を離脱。高野山に入って出家し、熊野を目指します。(『平家物語』巻第十「熊野参詣」)平家物語9 平維盛の熊野詣:熊野の説話 (mikumano.net)

 

画像:捕陀洛山寺の裏山にある維盛供養塔 平維盛の供養塔 - ぼんくら放浪記 (goo.ne.jp)

 

『平家物語』巻第十「維盛入水」平家物語10 平維盛の入水:熊野の説話 (mikumano.net)

 

熊野三山の参詣を無事にお遂げになったので、維盛は従者兵衛入道も石童丸とともに、浜の宮と申す王子の御前から一葉の舟に棹さして、万里の蒼海にお浮かびになる。遥か沖に山成(やまなり)の嶋という所がある。それに舟を漕ぎ寄せなさって、岸に上がり大きな松の木を削って、中将の名札を書き付けられた。「祖父太政大臣平朝臣清盛公、法名浄海(じょうかい)、親父内大臣左大将重盛公、法名浄蓮(じょうれん)、三位の中将維盛、法名浄円(じょうえん)、生年27歳、寿永3328日、那智の沖にて入水す」と書き付けて、また沖へ漕ぎ出しなさる。

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中将は今が極楽往生の絶好の機会だとお思いになり、たちまちに妄念をひるがえして、声高に念仏を100遍ほど唱えつつ、「南無」と唱える声とともに、海へお入りになった。兵衛入道も石童丸も、同じく御名を唱えつつ、続いて海へ入った。

 

                 引用:平家物語10 平維盛の入水:熊野の説話 (mikumano.net)

 

                 注:山成(やまなり)の嶋:勝浦港の沖合の山成島

 

画像:林原美術館蔵『平家物語(巻10)』

平維盛青海波の舞 - 平家物語・義経伝説の史跡を巡る (goo.ne.jp) 

那智の沖に舟を漕ぎ出し、鐘を鳴らし念仏を勧める滝口入道、妄念を翻し入水する維盛。

 

 ここに述べられている「浜の宮と申す王子」が、とりもなおさずこの熊野三所大神社(浜の宮王子)なのです。

 

 詳しい説明は、平維盛入水(浜の宮王子跡・振分石) - 平家物語・義経伝説の史跡を巡る (goo.ne.jp)がよろしいでしょう。お読みになることをお勧めします。

 

では皆さま、御機嫌よう。