目歯頭通り

2021/05/11

 目歯頭という名前の通りが別府市にある。身体の部分名称を三つ繋ぎ合わせた名詞には、例えば医者の耳鼻咽喉科があるが、目歯頭というのは聞いたことがない。第一どう読めばいいのかわからない。こういうときはGoogleにかぎる。そこでGoogleに登場願った。

 

筆者注:国立国会図書館デジタルコレクションで検索してもno hit !

 

 

Googleが指摘するのは日名子洋一氏の論文bs00911.pdf (beppu-u.ac.jp)別府歴史散歩(1)である。

彼の論文によれば、画面右端の10号線が現在の国道で、明治時代に設定された当時の国道は上の地図に見える645号線で、さらに遡って江戸時代以前の豊前街道は目歯頭通りなのだそうだ。こうなるともう、目歯頭通りは権威筋によるお墨付きの古道ということになる。

 

 

 日名子氏によれば、どうやら目歯頭は「メハズ」と読むようで、下の図で①の地点に目歯頭地蔵が残っているらしい。

 

画像:bs00911.pdf (beppu-u.ac.jp) 別府歴史散歩(1) 北石垣の西域コース

 

 昨日朝、6番のバス(別府医療センター行)に乗って、鶴見台中学校前で下車し、現地へ行ってみたのだが、目歯頭地蔵の位置は上図とちょっと違って、下図の位置にあった。

 

画像:GoogleMap, 2021

 

画像:GoogleMap,2021

 

街角の片隅にちんまり鎮座ましましている。近寄って観察すると、石堂のなかに板碑があり、その前に正体不明の石碑がおいてある。

 

 

 後ろに見えるのが四体分の地蔵らしくみえないこともない。これが目歯頭地蔵らしい。日名子洋一氏の下の記述とぴったり一致する。地蔵板碑である。

 

画像:bs00911.pdf (beppu-u.ac.jp)  日名子洋一氏の論文から 

 

 あれこれ調べたら、どうやら別府史談会が出版した「別府史談」にすべてが書かれているらしいことが判明した。

 

 別府に住む者には、過去の記憶との一体性が必要だ。九州以外から移住した人でないと分からないだろうが、九州という土地は、過去に遡ることのできる土地資料が豊富である。別府史談はまさしく今の時点での土地資料の集積である。これらを後世に残すことも大切だが、一般の人にアクセスしやすい形で残すことが必要だ。

 

私は一旦は、図書館で「別府史談」(1~34号)を読むことを決断した。だが一冊一冊図書館から借り出して読むのは気が遠くなるほどの負担だ。世の中には隠れたコツコツ作業される方がおられると感心する一方で、別府史談会へ提言したい。

 

 

 

画像:2021/04/24撮影。吉弘嘉兵衛統幸陣所跡

 

注:別府史談会への提言

 

 別府史談は創刊号から始まって202134号まで発刊されているが、これらの貴重な印刷情報が別府図書館での館内閲覧に限定されているのはまことに残念である。この出版物をデジタル化して公開してもらえないだろうか。pdfでもよいが、できればコピーしやすいホームページ形式にしていただければ、この本の評価は急上昇すると思われる。

 

 私はなにしろ81歳のじじいだ。

 

 この本を買おうにも買えない。本屋には売っていない。Amazonも無力だ。美味しい本を読むためには図書館まで歩かなければならない。片道25分もかかる。中身が良いだけに、長時間の労働が壁となるのは「かなわんな」という思いが強い。

 

例えば「別府史談」会長名義のホームページを作って、「別府史談」ホームページで閲覧できるようにしてほしい。KDDIのホームページJimdo freeなら情報媒体費用は無料だ。こんなご時世だから、どうせ原稿は各人パソコンで(デジタルで)作っているに決まっている。デジタルの原稿をわずかの部数で紙に印刷して、利用方法は図書館縛りにするなんてあまりにひどい。効率的ではない。

 

 大分県立図書館の電子書籍リストに載せてもらうのが、手っ取り早いのかな、とも思うけれども、お役所が入るとつねに話がややこしくなる。

 

 この「別府史談」は営利目的ではないのですから、ホームページで公開し、アクセス・カウンターをつけておけば、目的は達成できるはずですよ。

 

 それに調べたら、国立国会図書館には、この本の各ページのpdfデータがある。これを流用させてもらう手もある。

 

 要するに、「別府史談」の中身がGoogleの検索にかかるようにすればよいわけだ。そうすれば、「別府史談」の発行目的は達成され、読者数は(全国的に)飛躍的に高まる、そして執筆者のmotivationも強化される、と思う。

 

 

 考えてくださいよ。旧套墨守はいけません。

 

 

最後に目歯頭周辺に残る五輪塔の写真と、三島社の現在の写真を一枚づつ。

 

画像:実相寺通りにある五輪塔の配列。実相寺通りあるいは目歯頭通りが以前に豊前街道であったことを偲ばせる遺物。

 

画像:三島社 詳細はbs00911.pdf (beppu-u.ac.jp)でお読みください。

 

 三島社から一筋北の角に残る南無大師遍照金剛祠。南無遍照金剛とは「空海に帰依する」の意味ですから、真言宗ですね。

 

 

 碑面から読むと、建立されたのは、享和元年ですから1801年。伊能忠敬が全国測量を始めた頃です。やはりこの道が江戸時代の豊前街道であり、文化7211日(1815315日)伊能忠敬が測量目的で通ったのもこの道だと考えられます。別府というところは古いものが残っていますね。感心させられます。

 

 では皆さま、御機嫌よう。