アーロルゼン2

2018/07/03

 

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なんと驚くなかれ、背景に見えるのはアーロルゼン宮殿である。

 

宮殿の前庭を歩くのは、二人共、鉤十字を左腕につけたナチ党の軍人である。1939年頃の写真である。

 

アーリア人種こそが世界を支配するに値する人種である」とするアーリア至上主義のもとにナチ党が唯一の政党となったのが1933年、ナチ党の指導者であるヒトラーに民族すべてが従うという指導者原理がドイツを支配することとなった。突撃隊親衛隊を補助警察官として雇用した1934年、ヒトラーは全権を掌握する総統となった。1938年オーストリア、1939年にはチェコスロヴァキアを併合した。(参照:)

 

 

この時代のアーロルゼンは占領地域を含め43の大管区のうちの一つ、クールヘッセンに所属していた。

 

 

画像:https://ja.wikipedia.org/wiki/大管区_(ナチ党)

 

 クールヘッセン大管区の首都がカッセル、隣のチュリンゲン

大管区の首都がワイマールであったことがわかる。

 


 

さて、冒頭の写真に戻るが、右側に映っている人物がアーロルゼン城に住むヴァルデック侯国皇太子であり、ヴァルデック地方での親玉。1918年ドイツ革命によって君主制は廃止されていたはずなのだが、アーロルゼンでは名義的な君主制は生き延びていたものと思われる。

 

 

左側はルドルフ・ヘス(Rudolf Heß)である。ルドルフ・ヘスはナチ党の副総統、親衛隊大将であり、ヒトラーが1920年ミュンヘンでナチ党を結成して以来のナチ党創立メンバーで、ヒトラーのお気に入りナンバー・ワンであった。その当時、彼はドイツ国民の間で圧倒的な人気があったのである。なお、アウシュヴィッツ強制収容所長であったルドルフ・ヘスRudolf Ferdinand Hößと綴る)とは別人である。

 

 

 

この地方ヴァルデックは中世の時代から、農業・林業のほかはなにもない場所であった。ドイツの産業革命が開始されたのは、19世紀初頭であるから(参考)、それまでのヴァルデック侯はなにをして暮らしていたのかというと、軍事ビジネスであった。ヴァルデック侯は、17世紀後半に歩兵大隊を初めてつくり、18世紀後半には傭兵を欧州各国並びに米国へ送り出した。ヴァルデック歩兵は、アメリカ独立戦争にも傭兵として派遣され、英国側に附いて戦った。

 

ヴァルデック侯国軍は、1740年に2個大隊(第1連隊を編制)、1744年に3個大隊、1767年に4個大隊(第2連隊を編制)と拡充され、1776年には第3連隊(第5・第6大隊)が編制された。第1・第2連隊はオランダ、第3連隊はイギリスに派遣され、植民地の反乱の鎮圧などに出動した。アメリカ独立戦において、ヴァルデック侯国軍第3連隊がイギリス側で参加したのもこのためで、「ヘッセン人」 (Hessian (soldier)とまとめて呼ばれたドイツ人部隊の一環を担った(アメリカ独立戦争におけるドイツ参照)。アメリカ独立戦争に派遣された第3連隊は捕虜になり、帰還した兵士は少なかったが、1784年に改めて編制された第5大隊の一部に組み込まれた。(出典:)

 

                                                           画像 ミトラと呼ばれるトンガリ

                                                             帽子をかぶったヘッセン人傭兵

 

 

こうしてヴァルデック侯にとって軍事ビジネスは主要な収入源となり、アーロルゼンが軍事ビジネスの中心地になっていたのであるが、ドイツの国が普仏戦争1871年で統一されて、ドイツ帝国が成立するや、アーロルゼンにドイツ帝国軍隊が駐留することとなった。場所は、

 

              画像:GoogleMap, 2018。 赤い点線部分が帝国軍隊駐屯地だったと思われる。後世、この地区に突撃隊、

親衛隊の兵舎が作られ、更に戦後はNATO軍(ベルギー軍)駐留地となった。現在は全てが撤収されて

いる。

 

 なお、1871年からアーロルゼンに存在していた兵舎は、第一次世界大戦後1918年に一旦閉鎖されたが、1936、再び駐屯地となり、兵舎は増改築がなされた。ここはその後、突撃隊SA-スポーツ学校、ナチス親衛隊司令官学校として利用され、第二次世界大戦終戦までドイツ国防軍予備部隊の宿舎となった。(引用:)

 

 

 さらに、Wikipediaヴァールブルクの次の記述によれば、隣町のヴァールブルクは、アーロルゼン駐在の親衛隊によってナチ党の思うがままに処理された様子がうかがわれる。

 

画像:GoogleMap, 2018  ヴァールブルグの位置。

もちろん当時はカッセル-エッセン間のアウト

バーンは存在しなかった。

 

 

 

国家社会主義政治は、ヴァールブルクの重要なユダヤ人社会を抹殺した。1933年の時点で本市にはなお 160人のユダヤ教信者がいた。彼らのうち数人は、1939以前にパレスチナ、アメリカ、イギリスに移住した。このため、1939年には現在のヴァールブルク中核市区のユダヤ人は 96人にまで減少した。アルトシュタットのユダヤ人コミュニティのシナゴーグとリムベックのシナゴーグは、193811月の「水晶の夜」に、アーロルゼンに駐屯していた親衛隊の分遣隊によって破壊された。その後ユダヤ人はブーヒェンヴァルト強制収容所とダッハウ収容所に引き渡されたが、11月中旬と12月中旬に再び釈放された。194112月に初めは50人のユダヤ人がリガゲットーに送られた。その他のユダヤ人市民は1942ミンスクテレジエンシュタットアウシュヴィッツに送致された。ヴァールブルク地域から合計 148人のユダヤ教信者が追放され、このうち 136人がゲットーで死亡し、絶滅収容所で殺害され、あるいは行方不明になった。

           引用:)

 

画像 水晶の夜

 

19381111日、「水晶の夜」と名付けられた反ユダヤ主義の暴力により破壊されたユダヤ人商店の映像-ベルリン。このポグロムはナチスにより組織され、何千ものユダヤ教会とユダヤ人商店への攻撃の火ぶたとなった。

 

 

 

ブーヘンヴァルト強制収容所アーロルゼン分所

 

 1943秋にSS-司令官学校の一部がダッハウからアーロルゼンの旧兵舎に移転するのに伴い、その開所直前の1114日にブーヘンヴァルト強制収容所から34人の収容者が改築作業のために暗号名「アルトゥール」の下、アーロルゼンに送致された。さらにダッハウ強制収容所からも26人が送られてきた。1944秋には合計123人の収容者が増築作業や召使いとして働いていた。彼らは、主にドイツ、ベルギー、フランス、イタリア、ユーゴスラヴィア、リトアニア、ルクセンブルク、ポーランド、オランダ、ロシア、チェコスロヴァキア、ウクライナ、ハンガリーの手工業者であった。

 

アメリカ軍がヴァルデック/カッセル地域に侵攻する直前の1945329日、SSによる「撤収」が行われた。すべての収容者は、ブーヘンヴァルト強制収容所に連行された。

   (引用:)

 

 

 つまり、アーロルゼンはブーヘンヴァルト強制収容所の出張所となり、ナチス親衛隊のための兵舎維持作業の任にあたった。アーロルゼンとブーヘンヴァルトは今では近い距離なのだが、私がゲーテ・インスティテュートに在籍していたころは、西・東ドイツを分ける鉄のカーテンによって遮られていた。

 

          画像:GoogleMap, 2018 ブーヘンヴァルトとアーロルゼンの位置関係。両者間の距離は約200km