坐禅3

                                                                         2017/08/28

 

 

 

画像:菩薩坐像、ボストン美術館、2009/03/16撮影 部分修正。


菩薩坐像
中国、東魏王朝、紀元530年頃
河南省洛陽近辺の白馬寺出土
石灰石

 

 

 

 

美術館注解:


 伝えられるところによれば、当館アジア部門の初代館長であった岡倉覚三(1862-1913)が、1906年、中国で最も古い仏教寺院である白馬寺の境内で、この作品を半分土に埋もれた状態で発見した。彼は直ちにこれが520年代の彫刻のほぼ完全な例であるとして、その重要性を認識した。その当時は中国の芸術家達は、仏教彫刻につき単一水準の優雅さと美しさを獲得した時代であった。彼はこの作品を買おうとしたが、拒絶された;そこでボストンに帰り、友人たちや同僚たちに「逃げた魚」について話した。


 

 

 岡倉の死後間もなく、この博物館の評議員であったDenman Waldo Ross氏がパリの骨董屋でこの菩薩を見つけた。どうやら誰かが岡倉のあとで、寺院の管理人が断れないような金額を提示したらしかった。ボストンの最も活動的な収集家の一人であったRoss氏は、これまでに永年にわたって美術館に11,000点もの作品を寄贈していたのだが、この作品を買い取り、岡倉の特別なる功績を讃え、これを美術館に寄贈した。今日にいたるまで、この作品はこの種類の仏像のうちもっとも重要な作品の一つであると学者たちは考えている。

 

        画像:白馬寺境内。2004/10/10撮影。
        注:白馬寺については、仏教の伝来(1) を参照乞う。

 岡倉天心が白馬寺境内で土中に埋もれていた菩薩坐像を発見し、その美しさに驚嘆し、後にハーバード大学教授Dr. Denman Waldo Rossがパリの骨董屋でこれを再発見して、ついにボストン美術館に収まった経緯はこれで分かった。白馬寺は中国に仏教が入ってきて建立された最初の寺であることからして、この菩薩坐像は特別に重要な意味をもっていると考えられる。仏教徒としては、ついつい仏教の淵源を白馬寺に求める気持ちになってしまう。

 

 しかし、白隠禅師が「坐禅和讃」のなかで「夫れ摩訶衍の禅定は、称嘆するに余りあり」、「いはんや自ら回向して 直に自性を証すれば 自性即ち無性にて すでに戯論(げろん)を離れたり」と述べるように、外的事象を淵源と考えて白馬寺まででかけても、「自性を証すること」にはつながらない。


 菩薩坐像の美しさは古典芸術の典雅さとしてこれを称揚することには反対しないものの、外的事象は仏教の精神を理解する上では「的外れ」であることは確かだ。


 また「自性を証する」と書けば、自らの心を手術台の上におき、「実験的に証明する」、謂わば「自分で努力してこれを達成する」の謂いなのであるが、実際には、「自分で達成する」あるいは「自分の意思で達成できる」ものではなく、「それはある日突然に自分にやってくるもの」なのである。

 さらにより良き理解を得るために、「宗教的経験の諸相」(岩波書店、上巻 P105)からあるスイス人の書いた記述を引用したい。

「わたしは完全な健康状態にあった。わたしたちの徒歩旅行も六日目で、コンディションも上々であった。一昨日シクス(Sixt)を出発し、ビュエ(Buet)を通ってトリアン(Trient)へ向かっていた。わたしは、疲れも飢えも、また渇きも感じなかった。わたしの精神状態も、同じように健全であった。フォルラ(Forlax)に着いたとき、わたしは家からの吉報を受け取った。わたしは、さし迫った心配にも、遠い心配にも、煩わされることはなかった。わたしたちにはすぐれた案内人がついていて、これからたどって行かねばならぬ道のことで不安を感じることは、いささかもなかったからである。そのときのわたしの状態は、平衡状態とでも呼べば、もっとも適切に表現できるものであった。そのとき突然、わたしは、わたし自身を越えたかなたに持ち上げられるような感じを経験した、わたしは神の現前を感じた――わたしは、わたしが意識したままのことを語っているのである――あたかも神の善と神の力とがわたしに滲みとおるような感じであった。感動が高まって鼓動が激しく、わたしは、仲間の若い人たちに、わたしを待たないで先に行ってくれるようにと、辛うじて言うことができたほどであった。それからわたしは、それ以上立っていられなかったので、石に腰を下ろした、わたしの眼からは涙が溢れおちた。わたしは、わたしの生涯のうちに、神がわたしに神を知ることを教え給いしことを、神がわたしの生命を守り、わたしのごとき取るに足らぬ人間、罪ある人間をば憐れみ給いしことを、神に感謝した。・・・云々」

 

(念の為、英語原文全文を文末に掲載した。)

                     画像:GoogleMap 2017。緑線は徒歩旅行推定経路。

 Mont Buetは標高が3096mもある高山。出発点のSixt-Fer-à-ChevalもスイスのTrientへ抜ける途中のCroix de Ferもスキー場であるから、この人が行っていたのは山岳徒歩旅行であった、と理解してよいだろう。身体条件が完璧な状態でなければ参加できなかった山岳旅行であったと理解してよいだろう。フォルラ(Forlax)の位置については確認できないが、D1506国道沿いに昔あった宿場であろう、と推定される。旅行の時期は多分7-9月。

           画像:シクスからビュエに向かう山道。背景に見えるのがビュエ山。

 ここまでご理解いただいたら、そろそろ私の「思いがけない経験」をご披露させていただくことにしよう。私はこの際、自分で望んだからかような経験をしたのではない。この経験は充実した精神生活のなかで突然に、予期せず、まるで向こうからやってきたように私にやってきたのである。


 昭和33年、西暦1958年2月、私は京都大学を受験して不合格となった。不合格になってはじめて私は「合格するには勉強しなければだめなのだ」という真理を悟った。


 そこで私は金沢を離れ、京都市山科区西野山桜馬場町にあった伯父(父の兄)の家に引っ越しして本格的な受験勉強を始めた。数学と英語と理科は自信があったので、世界史などの文科系を中心に猛勉強したのである。


 桜馬場町というのは大石内蔵助が住んでいた場所で、ここから内蔵助は滑石峠を越えて祇園に通ったのであるが、私は毎日滑石峠を歩いて越えて東山通り七条のバス停まで行き、そこからバスで烏丸鞍馬口にあった関西文理学園に通った。滑石峠というのは当時はほとんど人も通らない山道で舗装もされていなかった。この山道は片道が30分ほどかかるので、私は吉岡力の高校教科書「世界史」を10部に小分けして、毎日一部づつ携えて、山道を声を出して読みながら予備校に通った。この教科書は実に名作中の名作であって、私は半年間この「世界史」を音読して、丸暗記してしまった。

 こうして受験勉強に打ち込んでいた秋、10月のある日、私は関西文理学院での授業を終えて、バスを東山七条で降り、いつもの通り、吉岡力を音読しながら滑石峠を越えた。天気は快晴であった。滑石峠には今は立派なテニスクラブがあるが、その当時はなにもなかった。また、滑石峠までの東山側(西側)は両側が狭く展望の利かない切通しのような山道であったが、滑石峠で周囲は開け、はじめて展望のきく爽快な山道となった。滑石峠を少し下ったシャープ・ピン・カーブのあたりは、今は谷側に竹藪が生い茂っていて展望がきかないが、当時は竹藪はなくて山科盆地が眼下に一望できた。

                                                      画像:GoogleMap 2017 滑石峠近辺 滑石街道xの地点。

                                                      その当時は竹林はなく、山科盆地が眼下に見えて景勝の地だった。

 

 

参考画像

 

 昭和10年頃、京都東山から山科盆地と音羽山を望む写真。田んぼ、畑ばっかりの田舎の風景。左に東海道線、中央に国道1号線が見える。清閑寺あたりが撮影ポイントか? とすれば撮影地は滑石街道よりも約1km北だが、昭和30年頃の滑石街道からの山科盆地の眺めもこれに近かった。滑石峠を越えると、眼前に広翰な山科盆地の眺めが広がっていた。

 私の健康状態は上々で、規則正しく行っていた受験勉強も順調で、これ以上に快適な気分にはなれないな、と考えていた。だから、通常は滑石峠からの下り道をシャープ・ピン・カーブの部分を省略して近道で下るのを、その日はシャープ・ピン・カーブの緩い道を快活に歩いた。私が地図上のX地点まできたとき、突然に、予期せぬ状態で、私の心の状態が変わった。突然私の心が喜びの気持ちで満たされた。ゆるゆるとそうなったのではなく、突然に喜びの感情ではち切れた。私はいままでモルヒネという薬の服用経験はないが、まるで頭のなかのどこかからモルヒネが射出されたような「天国へきたような」明るい喜びが私の体中を駆け回った。私は振り返って、東山の斜面を眺めた。杉の木の葉っぱの一枚一枚がまるでゴッホの絵のようにキラキラと揺れた。私は自分で「これが生命なのだ」、私の見ているのは「生命」なのだ、と理解した。生命が私の心眼に見えた。私の周囲のすべてが生命の輝きをもって揺れた。


 この状態が約5分続いた。私の心はこれ以上のない喜びで満たされた。私は実証的に「生命」そのものを見た。いままでの人生でこれほどの喜びを感じたことはなかった。「生命」にたいする確信が私の心にしっかりと根付いた。


 私はこの経験を誰かに話したい、と思った。だが、あまりにも喜ばしい内的体験だったので、宿の伯母さんに話しても理解してもらえないだろう、と考え、他人には話さないことにした。


 この経験は約5分後にはゆるゆると消えていったが、喜びの余韻は15分ほども続いた。この経験はその後しばらくは、念力をかけると、再現したが、喜悦の程度はゆるゆると小さくなっていった。

     画像:糸杉のある麦畑、ヴァン・ゴッホ、メトロポリタン美術館 2009/03/14撮影。

 こういう類まれな経験を味わってから、翌年昭和34年3月、私はめでたく京都大学の試験に合格した。工業化学科では一番の成績であった。まったくの無学から出発した私の父は、そのころには金持ちになっていたのだが、それまで感じていた積年のインフェリオリティー・コンプレックスを息子の京都大学合格で吹き飛ばすことができて、とても喜んだのである。


 私はこの経験を味わったのち、振り返って、これが西田幾多郎の説く「善」であり、カントの説く「純粋理性」であることを即座に理解した。ナチス論者に差をつけるようでいささか申し訳ないが、この経験をもたない人が、「善」とか「純粋理性」という概念を「書いたもの(本)」で読んで頭で理解するのは難しいだろう、と考えた。白隠禅師が述べるように「直に自性を証すれば」の関門は、自分でこの神秘経験を体験する以外にあり得ないのである。

 

 

引用文(英語原文)
https://csrs.nd.edu/assets/59930/williams_1902.pdf p53

 

Here is another document, even more definite in character, which, the writer being a Swiss, I translate from the French original.28

 

28 I borrow it, with Professor Flournoy's permission, from his rich collection of psychological documents.

 

"I was in perfect health: we were on our sixth day of tramping, and in good training. We had come the day before from Sixt to Trient by Buet. I felt neither fatigue, hunger, nor thirst, and my state of mind was equally healthy. I had had at Forlaz good news from home; I was subject to no anxiety, either near or remote, for we had a good guide, and there was not a shadow of uncertainty about the road we should follow. I can best describe the condition in which I was by calling it a state of equilibrium.  When all at once I experienced a feeling of being raised above myself, I felt the presence of God―I tell of the thing just as I was conscious of it―as if his goodness and his power were penetrating me altogether. The throb of emotion was so violent that I could barely tell the boys to pass on and not wait for me. I then sat down on a stone, unable to stand any longer, and my eyes overflowed with tears. I thanked God that in the course of my life he had taught me to know him, that he sustained my life and took pity both on the insignificant creature and on the sinner that I was. I begged him ardently that my life might be consecrated to the doing of his will. I felt his reply, which was that I should do his will from day to day in humility and poverty, leaving him, the Almighty God, to be judge of whether I should some time be called to bear witness more conspicuously. Then, slowly, the ecstasy left my heart; that is, I felt that God had withdrawn the communion which he had granted, and I was able to walk on, but very slowly, so strongly was I still possessed by the interior emotion. Besides, I had wept uninterruptedly for several minutes, my eyes were swollen, and I did not wish my companions to see me. The state of ecstasy may have lasted four or five minutes, although it seemed at the time to last much longer. My comrades waited for me ten minutes at the cross of Barine, but I took about twenty-five or thirty minutes to join them, for as well as I can remember, they said that I had kept them back for about half an hour. The impression had been so profound that in climbing slowly the slope I asked myself if it were possible that Moses on Sinai could have had a more intimate communication with God. I think it well to add that in this ecstasy of mine God had neither form, color, odor, nor taste; moreover, that the feeling of his presence was accompanied with no determinate localization. It was rather as if my personality had been transformed by the presence of a SPIRITUAL SPIRIT. But the more I seek words to express this intimate intercourse, the more I feel the impossibility of describing the thing by any of our usual images. At bottom the expression most apt to render what I felt is this: God was present, though invisible; he fell under no one of my senses, yet my consciousness perceived him."