抜粋1

2020/12/15

益軒全集巻之五 P188

黒田家譜巻之六

 

 

90a1

 

とす。兩大將當年大明の萬暦(ばんれき)二十年五月に、鴨緑江を渡り、七月十六日此説皇明實記に見えたり。小西行長(*1)が籠れる平壌の近邊安定館(あんていくわん)によせ來る。小西行長平壌城より出て、七千餘人を率し是にむかふ。長政(*2黄海道(*3)より來りて小西と陣をつらぬ。立花宗茂もつづいて陣をとる。其後長雨ふり泥深かりしが、八月十日の朝、史儒士卒をひきゐて、行長が陣に押寄たり。行長が先手木戸作右衛門力戰せしが、打負て引退く。長政彼が勝ほこりたる勢に少も猶豫せす、敵陣にかけ入、散散に攻立給ひければ、史儒痛手おひて引退く。長政敵のにぐるを追て進み給ひけるが、後陣の祖承訓馳來り、長政の勢をかこむ。史儒が勢も又取て返し戰ひければ、長政前後に敵をうけ力戰し給ふ處、立花宗茂來り加はれり。長政是に力を得て、きびしく攻戰ひ給ひしが、終に敵を追崩さる。小西行長敵の敗軍するを見て、後をさへぎりて史儒を打とる。祖承訓は逃去ぬ。敵兵多く討れ、わづかに殘れる者はにげ去

 

 

(*1小西行長

 

(*2長政 

 

(*3)黄海道

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90a2

 

ぬ。此事大明へ聞えしかば、大明の神宗皇帝諸大臣をあつめて評議し、十月より兵を催し良將をえらび、李如松(りじょしょう)(*)といふ者を總大将とし、李如柏(りじょはく)、張世爵(ちやうせいしゃく)、楊元(やうげん)と云三大将、並駱尚志(らくしやうし)、呉惟忠(ごゐちう)、王必迪(わうひつてき)などいふ大將是に屬し、兵士凡五萬人を又朝鮮へ遣さる。李如松は是より以前北方の寧夏を平らげ、功をなして歸りし名將なり。同年十月二十七日に李將軍山海關を出て、十二月廿五日軍に誓て鴨緑江を渡る。文祿二年、孝高四十八歳。長政二十六歳。

 

大明の萬暦二十一年正月三日、大明より來る大將李如松五萬人を率して安定館に着、朝鮮の軍兵彼方此方より馳加りて、都合其勢二十萬餘人、同六日小西行長が守りし平壌城に押よする。小西は去三日明兵のいまだ城下に攻來らざる時より、大友義統、黒田長政、小早川秀包に使者を遣して、大明の兵數十萬、近日我城をせめんために寄來るよし聞え候。敵は大軍にて身方は小勢なり。寡はまことに衆に敵すべ

 

(*)李如松(りじょしょう) 李如松 - Wikipedia

 

 

 

90b1

 

からず。急ぎ來り救ひ給へと告やりける。其後大友義統先斥候(ものみ)を遣して南兵をうかがゞはしむるに、使歸りて江南人何十萬といふ事をしらず、平壌城のまはり日本の路程四五里が間は、野も山も敵充満したりといふ。あるひは小西は既に討れたりとも聞ゆと申ければ、義統驚て其大軍にて取圍まば、小西を救ふ事思ひもよらず、小西も定て討るべし。小西が城沒落せば、大軍此城へやがて寄来るべし。左あらば此城を持こたへん事なりがたかるべしとて、鳳山の城を出、都をさして引退かる。鳳山の七里此方、長政の家臣、小河傳右術門が籠れる龍泉の城下を通るとて、大友告ていはく、小西は大明人大勢に取圍まれ、既に討れたる由聞ゆ。此城は猶小勢なれば、持こたへん事なりがたかるべし。いそぎ城をあけ退くべしとすゝめらる。傳右衛門申けるは、此城をあけのき候事は、長政方へ注進申候て、其下知にまかせ申べし。若其内急に大明人大軍にて攻來り、たとひ此城にて戰死