抜粋5

2020/12/15

益軒全集巻之五 P194

黒田家譜巻之六

 

 

93a2

 

此地要害よく候へば、敵大勢にて參るとも、防ぎ戰ふ事難からず。其上かねてより取堅めたる城なるに、敵大軍にて來ればとて、聞おぢしていまだ一戰もせず引退ん事、日本の武名の耻辱なり。且は我等臆したるに似て候へば、此城を退く事おもひもよらずとて、其使者を歸されける。小早川隆景より長政へ参る狀にいはく、

 

從都御検使中爲使、西堂今朝卯刻爰亢着之條則申入候。

小攝無事に取退先以可然之由候。其地之儀難被相抱在所

に候間、至爰元各可有御趣之通、西堂被申候。委細は昨

日以包藏令申候條、不能書中候、恐々謹言。

   正月十三日   小左衛 隆景判

       黒甲樣御陣所

 

隆景秀包も長政と同じ返答なりければ、王城の人人是を聞、鵞ていはく、いづれもつよき大將なれば、一往すゝめては同心あるべからず。重て辯舌よき人

 

 

 

93b1

 

を遣し、王城へ引とられ候樣に、各得心させ然るべきと評定し、大谷刑部少輔亦隆景の居城開城府まで來り、隆景をいさめ、秀包長政へ使を遣し、大敵に對し小勢にて戰はん事然るべからずとて、色々に詞を盡しければ、隆景も長政秀包も、理に伏して王城(*1)へ引入給ふ。

 

此時三奉行より長政に來りし書にいはく、

 

  乍御返事委細令拝見候、彼州之儀程遠候に付て、

  引入之儀各令相談申入事候。然ば諸々仕置、な

  ごやへ御注進旁安國寺差遣し候て、隆景御越相

  待候て有之事候、御人數不殘置候て、先早々隆

  景御同道にて御出待申候。恐々謹言.

   正月十九日    増 右 長盛(*2) 判

                 大刑少 吉継(*3) 

 

                 石治少 三成(*4) 判

       黒甲斐守殿

            御返報

 

 

(*1)王城 京城(ソウル)、漢城とも。

 

              歴史的変遷は次の資料に詳しく説明されている。

 

画像:李氏朝鮮時代初期の漢城

 

(*2)長盛 増田長盛 - Wikipedia 

 

(*3)吉継 大谷継 - Wikipedia

 

(*4)三成 石田三成 - Wikipedia

 

 

 

93b2

 

三將皆都へ歸られける路に大河あり。其河端に三將一宿せられしに、跡より敵大勢したひ來る。高き所より敵の勢をのぞめば、數萬騎あると見えたり。隆景長政士卒に下知せられけるは、身方は都合二三萬程なればよき比の相手なり。江南人は悉騎馬武者なれば、弓鐡枹の者は只馬を射よ、人を射るべからず。敵馬を射られて徒立(かちだち)にならば、役には立まじきぞと下知せらる。是杜子美(*1)が詩に、射人先射馬(*2)といへるに同じ。馬を多く射たふせば、軍の備みだるゝ故なり。其上馬は射安く、人は射がたければなるべし。隆景は大勢なれば、敵の正面よりむかひ、長政秀包は山上へ打廻り、敵の諸備にかゝり給ふ。身方の先手、大将の下知に隨て、人をば先さし置、弓鐡砲にて敵の馬を多く射たふしければ、大明人馬にはなれて、日本人の如くかろく働く事成がたし。又長政秀包跡へまはす勢を見て、敵共おそれて引退きしを、長政秀包追かけ追かけ敵を多く討取給ふ。隆景は老功の人な

 

(*1)杜子美 杜甫のこと。杜甫の字は子美。

 

(*2)射人先射馬 杜甫 (とほ)の「前出塞(ぜんしゅつさい)」にある「射人先射馬 擒敵先擒王」(人を射んとすれば先ず馬を射よ、敵を擒えんとすれば先ず王を擒えよ)が出所。