黒田家譜巻之十二(1)

 

2020/05/13

 

 

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黒田家譜卷之十二

 

 

 

同年の秋、(慶長五年如水(*)は豊前中津川に在域し給ふ。上方に兵亂起らん事。かねてさとれる事なれば、上方より急を告來らんために、早船を大阪と備後の鞆(**)と周防の上の關と凡三所に置て、大阪よりの使鞆まで來れば、其船は大阪へ歸し、鞆の舟上の関まで來り、其船は鞆へ歸り、上の關の舟中津川へ來れと命じをかれける。上の關より中津は海上二十八里也。かくのごとく段々に告來る故、水手舵取等辛勞なく、日夜をこたらずして、大阪より三日ばかりには、中津川へ早船到來す。

 

七月十七日大阪に在し家臣、母里太兵衛、栗山四郎右衛門方より、野間源兵衛といふ者を下して注進しけるは、家康公(***)關東へ下り給しを好(よき)時節と思ひ、石田治郎少輔(****)亂を起し、毛利輝元、島津、小西、安國寺、其外奉行中をす丶め、大軍を催し、家康公を

 

 

(*)黒田如水

 (**)備後の鞆:鞆の浦

 (***)家康公

 (****石田治郎少輔: 

 

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討奉らんと企て、先伏見其外近國にある所の 内府公の御方の域々を攻んとて、士卒を指遣さんと議するの由風聞申候と、委細の書状を以告來る。其上使者の口上にも、其由ひそかに私語(ささやき)ける處に、如水も隠密せずして、天下分目の兵亂はや出來たり。いそぎ陣用意すべしと、高聲(かうはやり)にぞ仰ける。孝高(*)は家康公の寛仁大度にして、又古今にすくなき良將なる亊をかねて知り、殊に先年小田原にて、家康公の御陣へ屢行て拝謁し、天下の君と成給ふべき、器量ある事を察し、秀吉公薨じたまはば、この君にこそ天下の人は歸服すべきと、かねてよりおもひ設けし事なれば、今この時に至ては思案にも及ばず、一向家康公に心を寄らる。其後家臣井上九郎右衛門、久野次左衛門、野村市右衛門等を召てのたまひけるは、上方に兵亂出來たる由到來あり。我は二心なく内府公(**)に屬するなり。いそぎ軍勢を催し、先九州の敵を悉攻平らげ、中國へをし渡り、毛利家領分の國々を退治し、廣島

 

 

(*)孝高

 

 画像:べっぷの文化財No.44 別府市教育委員会/

別府市文化財保護審議会 平成263月、表紙

 

 (**)内府公:内府は内大臣の別称。徳川家康は文禄558日(159663日)に内大臣の官職を得た。日本語で「ないふ」、漢語で「だいふ」。つまり、この場合は「徳川家康」を指す。

 

 

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を燒拂ひ、其後兵船を播州室の港(*)にあつめ、姫路へ押よせたらば、我が古鄕なれば、我手なみのほどは國人のよくしれることなり。近國悉したがふべし。それより都へ攻のぼり、家康公へ忠節を盡さんと思ふなり。頃此(このごろ)城の修理を申付たり。然れども只今城普請も無益なり、修理をやめさせ、いそぎ陣用意すべしとぞ仰ける。其時家老共申けるは、仰候處は心地よく候へども、我等ども存候は、御家人共多く、長政公の御供にて、關東へ參り候へば、殘る所の軍兵甚すくなし。九州は悉治部少輔方に屬して大敵也、此小勢を以、此方より打出、大敵と戰ひたまはば、勝利を得給ふ事有べからず。今既に大下の大亂に臨める時節にて候。幸城の仕かかりたり、塀(へい)矢倉等の破損を修復して堅固になされ、敵來らば籠城の御覺悟然るべく候。左候て世間の成行を見合せて、よき時節打て出、合戦を被成可然と存ずる也と申しければ、如水聞て、汝等久しく我に仕ふるといへども、某が力

 

 

(*)播州室の港:

 

古来、奈良時代から1300年の歴史を持つ天然の良港として栄えた港町は、歴史的に景勝地でもあったところ。

 

瀬戸内には数多くの”風待ち湊・潮待ち湊”として役目があり、そこには人や物資が集約され経済が潤うことに成り、特に江戸時代には西国の諸大名の参勤交代の宿場町として繁栄し、当時日本最大級の宿場町として本陣が6軒もあったそうですね(普通は1~2軒)。

 

すなわち海と陸の接点という要所から「室津千軒」と呼ばれるほど、想像を超える繁栄ぶりだった。(説明:)

 

画像:GoogleMap, 2020

 

 

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量をしらず、長政家人を關東へつれ行、殘る兵すくなきといふ條勿論なり。然れども今度我が相手にならん、九州中國の、敵の大將の心をしらずして、左は思ふなるべし。此度の軍、身方小勢なれども勝べき道理あり。今度の戰に大勢はいらず、其方などを先陣とせば、後陣には比丘尼を備へ置たりとも戦には勝べきぞ。豊後七人衆並、毛利壹岐守等は某が脚下にあり。彼者共某をしらずして、此城へよせ來るべし。彼等に押よせられては、某が平生の武勇も、をとろふるに似たり。只此方より打て出、九州をかたはしより攻平ぐるにはしかじ、いはれざる氣遣すべからず。今の時節は我が居城にたて籠りて、敵を引うけ合戦するは宜しからす。國の外に打出、敵を領内に入たてずして、勝負を一戦の上に决せんと思ふなり。居城を頼にすれば、出合の戰必をろそかになるもの也。去ながら境目の小城をば、何れも修理を加へ、成程堅固にして、如水が後詰を待べしとて、中津川の城普請

 

 

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はやみぬ、其後勘定奉行杉原氏を召て、蓄をける金銀の員數をはかりて、天守より金銀多く取出させ、廣間につみをき、長政東國へ發向して、家人多く召つれたれば、殘る人數すくなし。何者にてもあれ、奉公に出べきといふ者あらば、貴賤をえらばず、此金銀を與へて召抱べしとて、領内に觸廻され、たとひ出家たりとも、出陣の供せんと思ふ者は、召抱らるべしと申付られける。大将たる者の、常に萬檢約を守りて、妄に無用の費をなさヾるは、かやうの時多くつかひ用んためなり。我平生多く積置たりし金銀なれば、今度の軍用に不足あるべからず。先家中の諸士に、各相應に配當すべしとのたまひて、士卒の不足をすくひ給ふ。扨貝原市兵衛、並杉原一佐等に仰付られ、金銀を多く預け置、來り集る諸浪人を抱へさせらるるに、近國皆敵にして、領内より來り集る士は稀なれば、賤き者をも其人柄を見て召加へけるが、都合三千六百餘人か丶へたりける。領内の百姓にも、刀

 

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脇指をさして、今度出陣の供したらん者には、褒美を興ふべしとふれたりしかば、供する者多し。

 

大阪に如水長政の内室をはしますを、若城中に人質にとられもやすらんと、如水も家臣も皆此事のみ心もとながりける處に、大阪より二人の内室難なく下り給しかば、如水悦び給ふ事限なし。栗山四郎右衛門、母里太兵衛才覺よろしくして、二人の内室恙なく下り給ひし事、感稱し給ひ、をのをの褒美として脇差を賜はる。大阪を出し時の艱苦、船中の窮屈、左こそ堪がたかりつらん。其いたはりの慰めに、踊ををどらせて見せんとて、中津川の町中にいひつけ、花やかに踊を仕立させ、城中にていかにも優長に終日見物し、諸士下部まで是を見せしめらる。是は士卒の心をいさましめ、勇士の屈せざるやうにせんとの良將の意(こころ)なるべし。家臣共眉をひそめて、是ほどの大亂を聞ながら、只今の踊は何事ぞや。隣國皆敵にして、只今何方より攻來るべきもしらざる時節なるに、いかなる心にて、かく心やすく遊興をばしたまふやらんと、諸人あやしみ思ひけれ

 

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ども、如水少もさはがしげなる気色もなく、陣用意をば油斷なく下知し、自身は平生無事の時の如く、のどやかにして日を送り給ふ。是は司馬法に見敵靜見亂暇(*)といへる意なるべし。又此頃加藤主計頭清正の内室も、其家臣梶原助兵衛が計にて、大阪の宅を忍出(**)、肥後へ下り給ひしが、豊後には順序なれども、多ければ船をよせずして、是も中津川へあがり給ひ、如水の家人梶原八郎大夫が宅に寄宿せらる。如水是を聞給ひ、清正の内室に使を遣し、今度難儀を凌ぎ俄に下り給し間、衣類なども左こそ乏く不自由ならんとて、時服夜着など多く送り給ける。又敵の中を忍て下り給ひ、召使の女もなければ、如水の命にて、長政の内室のつれ下り給し局(つぼね)を一人、清正の内室につけて、熊本まで送り遣し給ふ。此度清正の内室の、供して下りし梶原助兵衛は、梶原八郎大夫が妹聟なれば、其親ある故に、八郎大夫が宅にやどりたまひしなり。八郎太夫後に八入と號す。

 

 

(*)見敵靜見亂暇:司馬法 定爵(ていしゃく)第三

(**)忍出:しのびいず、と読む。他人に知られないように、ひそかに外出する。こっそりとぬけだす。