黒田家譜巻之十二(4)

2020/05/15

 

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松井有古が注進の様尤よし。敵を恐れて使を差越れば、加勢をこそこふべきに、其事をいはざるは勇士の志也。木付の城を敵に攻落させてはいひがひなし。さらば後詰の兵を遣すべしとて、井上九郎衛門、久野次左衛門、野村市右衛門、後藤太郎助、時枝平太夫、毋里與三兵衛、曾我部五右衛門、池田九郎兵衛、黒田安太夫等を相そへ、都合其勢三千餘人、赤根嶺より引分て(*)、木付の後詰に遣さる。如水は翌十一日の曉(あかつき)赤根嶺を立て、富來の城の八九町此方の野山に馬を立られ、未明より諸勢悉富來の城を圍ませらる。其後如水は濱の手より打廻り、伏兵はなきかと見そなはし、頓て城近くまで寄給ふ。此城は垣見(かきみ)和泉守が居城なり。和泉守は治部少輔が方人(かたうど)にて、美濃の大垣にあり。垣見理右衛門和泉守の兄なり。藤井九左衛門、和泉守妻の弟なりをはじめ、留守居の者其城を守り居たり。如水此城の形勢(ありさま)を見給ふに、即時には攻落しがたく、又あつかひなどにせば隙入べし。大友に勢のつかぬ先に、

 

 

 

(*)赤根嶺より引分て:

 

 画像:べっぷの文化財No.44 別府市教育委員会/

別府市文化財保護審議会 平成26年、P12

 

 

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一刻も早く押行べし。其上木付の城も心もとなし、大敵を討取て後、かやうの小城は何時も攻よきぞ。さらば此城をば先うちすて、無事に通るべし。若城より敵跡に付て出來らばをさへよとて、母里太兵術一備を其手當に定めおかれ、一番貝に兵粮つかひ、二番貝には打立て、木付の方へ押行たまふ。垣見和泉守が留守居共物なれたる者なれば、斥候ばかり少々出し、馬の駈場(かけば)あしき所より、遠ながら鐵砲少少はなちかけける。太兵術は如水の跡備より猶跡にさがりて、敵を引つけ討んと思ひ、敵の追來る樣に靜に押行けれども、敵も心得て近つかず、船手の兵は沖に船を浮べて居たりしが、陸地の勢の押行を見て船を漕出す。夜に人て陸地の勢數千人績松(たいまつ)をともして押行を、沖の船より見渡せば晴たる夜の星の如し。

 

同十二日の未の上刻、安岐の城の向に着陣し給ふ。安岐の城は富來より三里宿にあり、是は熊谷内蔵允(くらのすけ

 

 

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が居城なり。熊谷も治部少輔に屬し、大垣の城に在て、安岐の城には留守居の者共籠城す。如水此城にも手をかけず、只遠見張番油斷なくさせて、其處に一宿し給ふ。晩景に城中より物見のためとおぼしくて、鎧武者數人乘出し、身方の陣の近邊迄來りて度度馳廻りけるを、身方若武者共是を討んといさみける。如水かたく制して、身方の陣より一人も出合べからず。若軍法を破りて出て戰ふ者あらば、何者にても刑罰に行ふべしと下知せられける。如水のいはく、富來の城の敵はしずまりて見えしが、此城の者共ははやり立たる形気(けいき)なり。明朝此陣を打立時節、定て敵跡をしたふて城より付來るべし。此方よりも引伏(ひきふせ)を置べしとて、栗山四郎右衛門を將として、馬廻の士頭肥塚理右衛門、原彌左衛門、齋藤五左衛門、小林甚右衛門に命ぜらる。又岡田三四郎後黒田□物と號す本田半三郎、畑彌平次、山脇彌七郎などいふ兒扈從(こごしやう(*)をもつれ行て取飼へとのたまひ、鐵砲足輕多く指添られ、又

 

 

(*)扈從:こしやう、現代語読み こじゅう。下使いの意。

 

 

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黒田三左衛門家人に、江見彦右衛門、粕屋茂兵衛、近藤加右衛門、關勘六などいふ者、豐前に在て此陣の供したりしが、是等をも相加へられ、都合五十騎ばかり也。如水四郎右衛門等に下知して、あの谷合の藪陰に伏兵を置べし。前は馬の駈場よき所なり。敵通る時早く伏兵を起して、打もらすなとぞ仰ける。其下知に從て、敵の城よりしたひ來るべき、山間(やまあひ)の道の邊の藪陰に隠れて、敵の來るを待居たり。其上の山を木の山といふ。伏兵を置く所を四本といふ。如水は明十三日の早天に、先勢を木付の方にをさせ、旗本を引とり給ふ處に、案のごとく城中より熊谷次郎助を頭として、騎馬の兵五十人、雑兵共に凡二百人許、打出てしたひ來りけるが、此方より伏兵を置たる藪陰を不審に思ひ其根をよけて通りけるを、身方の伏勢(ふくせい)共一度に起り、弓鐵砲を放ちかけ、敵身方たがひに矢軍をしけるが、栗山よき時分と思ひ、麾(ざい(*)を揚(あげ)けれぱ、相圖を待かねたる勇士共、五十騎ばかり一度に進みける。中にも本田半三郎と

 

 

(*)麾:采配の意

 

 

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名乗、一番にかけ出しける。是を見て原彌左衛門、齋藤五左衛門、中村甚助、山脇彌七郎、畑彌平治、岡田三四郎其外六七騎、真先に乗出し敵陣へか丶る。殘る勢つヾいてことごとくか丶り、散々に戰ひければ、敵忽に敗北す。此時肥塚里右衛門、齋藤五左衛門、本田半三郎、岡田三四郎、山脇彌七郎、長井八郎右衛門、中村甚助、並栗山手の者、栗山甚太郎、津田才蔵、養父仁左衛門、黒田三左衛門内、江見彦右衛門なども、皆分捕をぞしたりける。畑彌平次も騎馬の敵を鎗付て手を負ける。身方勝に乘て追打にしけるを、如水はるかに見給ひ、いそぎ人數を引とるべしと下知せらる。栗山四郎右衛門承て、再拜(*)を振て身方の兵を引取ける。城の十町ばかり此方に小川あり。其川を限に追捨たり。城中より是を見て又兵を出し、敗軍せし者をも押留め、都合三百餘人小川の端に備を立たり。栗山下知しけるは、此ま丶引取て敵もし付来らず、戰ひなくして相引に引(**)たらば、

                  

  

 

(*)再拜:指揮道具の一つ。

(**)相引に引:(読み:あいびきにひく)戦っている双方が互いにその場から退くこと。

 

 

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彼が城中より出て備たりし勢に恐れて逃たりと、後日にいふべき事必定なり。いざや此小川を越て、あの敵某を一追をひ崩し、にげば其ま丶にがすべし。長追すべからずといましめ、身方はや川に乗いらんとする體を見て、原彌左衛門、並其子吉蔵二男與六郎、其弟喜右衛門、郎徒共に六騎、一番に乗入、又本田半三郎も前後をあらそひ、小川を駈渡りける。凡五十騎ばかりの兵共、一度にか丶るを見て、初追立られたる者共、最前の合戦に負て、臆病心付たれば、一戰にも及ばず引退ける。城より後に出たる兵の内より殘りたるかと覺えて、思ひ定たる勇士と見え、二十五人一足もひかず踏こたへて戰ひける、此時如水の家人、小林甚右衛門、彼二十五人ひかへたる所に、一番にかけ付、馬上よりよき武者一人突倒し、鎗をはねすて馬より飛でおり、刀をぬき歩みよる所に、常々、軍あらぱ引廻して給はれと、頼みける若式者一人、馬にはなれ徒立(かちだちになり來りけるを、小林見

 

 

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て此首とれと言捨て、敵に突立たる鎗を引ぬき、馬に打のり先に駈行ける。去程に身方の兵共、我も我もとあらそひ戰へば、彼二十五人の兵大かた討れぬ。其外の者は蜘の子を散すごとくにげ行けれぱ、身方の兵共、猶も追かけ高名せんと馳行けるを、栗山乗廻し馬を横たへ、軍法を破り、沙汰の限なりと制しければ、いづれも馬を乗とめ、勝鬨(かちどき)をあげんといさみけるを、栗山申けるは、只今勝どきをあげば、敵追すてたる事を知て、心安く退べし。無用なりと制しける。敵其の物具下々に拾はせ、軍にかてば利得ある物と思へば、下々いさむものぞとて、心靜に本陣に追付、首共實檢にいれければ、如水感じ給ふ。此時打取首數四十八、其内かぶと付二十、雑兵二十八なり。就中熊谷次郎助は、岡田三四郎討て、時の大將の首なればとて、賞翫なる感書をたまはる。此時如水みづから携えたまふ白旗をたまふといへり。又船曵刑部等も高名したりしかば、豐前の内にて加祿を與へらる丶よし、感書賜りける。

 

 

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又小林甚右衛門が鎗つけたりし敵の事、小林はかくともいはざりしに、首をとりたる者、此首は小林鎗付て拙者に首をとらせ候。全く拙者手柄にてはなく候由、實檢の塲にて申ける。如水聞て小林を感じ、祿を多く與へ給ふ。又首とりし者も、其眞實なる事を感ぜらる。小林は日本朝鮮の合戦に度々高名せし故、今日首とらずともと思ひ、我が鎗付し敵の首を人にとらせけるにや。實檢終て勝鬨を執行ひ、物初よしと悦で、其首を中津川に遣し、島田といふ所にぞかけさせられける。如水豐前より發向の由、大友の陣所濱脇へ聞えしかば、大友義統家人と評議して、いづくを要害と定めて、黒田と戰はんやと詮議せられけるが、田原紹忍申けるは、よき要害こそ候へ。速見郡立石(たていし)と申所(*)は、後はさがしき山あり。前は岩岸(いはぎし)高くして九折(つヾらをり)なる細道なり。殊に御先祖大友能直、頼朝卿より豊後を賜りて、初て此國に下り給ふ時、先立石に御上り有しといひ傳へたり。御父宗麟公も、彼所に

  

 

(*)速見郡立石(たていし)と申所:現在杉乃井ホテルの立つ場所。手前がそそり立つ岩壁となっており、峻険な地形である。

 

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