黒田家譜巻之十二(7)

2020/05/18

 

 

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まします由を聞、いそぎ境へゆき、義弘に對面す。義統、いかに加兵衛久しく相見ざりしぞ、今度毛利輝元、增田右衛門尉承り候て、秀頼公(*)より本領豊後國を下され、其上當時の御合力として、具足百領、馬百疋、鎗百本、鐵砲三百挺、銀三千枚賜り。急ぎ豊後へ下り、九州をしづめよとの仰なり。我が仕合はなをりたり、汝もよき折節參りたり。我が供せよとのたまひけれぱ、加兵衛聞て、いやいや御仕合はいよいよあしく成て候、只御運のつきさせ給ふ所なりとぞ申ける。義統も、傍にありける木部元琢、竹田律一卜も是を聞て、興さめてこそ見えたりけれ。義統、さて汝はいかヾ思ふぞと尋らる。吉弘申けるは、とかく天下は内府の御手に入可申候。此度の亂は、石田治部少輔天下を望む謀計より事起り候。逆謀に與して一旦利運になり候とても、悪名末代に殘て淺ましき事にて候。其上是は、御身も御名も共に失ひ給ふべし、殊に、義延は内府へ屬して、江戸に御座候へば、御

  

 

(*)秀頼公

 

 

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子と共に、内府の御方を被成可然候。是は大事の御分別にて候、能く御思案被成候て、御後悔なき様に御謀有べし。我等は義延を守立申べきため、立花左近に暇を乞て關東へ參候。只今御暇乞申なりとぞ答へける。然れども大友同心なし、吉弘其後再三大友をいさめけれども、承引なければ力及ばず。義統は豊後へ下らんとて、其翌暁大阪へゆき、傳法(*)といふ所まで出られける。加兵衛は關東へ赴かんとて、我が旅館へ歸りしが、つらつら思ふやう、今滅亡に極りたる眼前の主君をすて、世に出給うべき遠き關東の義延に參らん事不義なり。扨ははや我運命も盡はてたり、さらば今義統の供して豊後へ下り、本國の土とならんと思ひきはめ、大坂より船にのり、傳法へ追付ければ、義統斜ならず悦ばれける。其後上の關にて如水の使者來り、 異見状を見て、又近々諌めしかども、義統終に同心なし。豊後へ下りしかば、加兵衛は宗像掃部といひ合せ、こ丶ろよく討死せんと極めしが、

 

 

(*)傳法:大阪の伝法町。 西成郡伝法村は淀川(旧河道)の河口に位置し、戦国時代から江戸時代初期の大坂の外港として繁栄した。樽廻船発祥の地でもある。

 

 

 

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石垣原の合戦に赴きし時、義統の前に出て申けるは、今度の軍にたとひ打勝たりとも、畢竟御利運には成申まじく候。私事は今度討死に究め申候間、一生の御對面は、只今ばかりとおぼしめされ候へと申、涙を流して打立ける。かねていひし言に少も違はず、終に戰死を遂(とげ)にけるこそ哀れなれ。此度加兵衛が舊恩をしたひて、馳集まりし士卒多かりしが、一足もひかず討死す。加兵衛事は論ずるに及ばず、其家人まであはれ惜き士ども哉と、敵も身方も感ぜぬ者なし。其後其里人石垣原の東なる、小石垣村と南石垣村の間、大屋の西のかたはらに、加兵衛の墓をつき、石碑をたて、其姓名をしるせり。吉弘は義あり勇有て、名高き士なる故、志ある士は馬より下り禮をなして通る。大剛の武士なればとて、近里の民の瘧(*)を煩ふ者、此墓にいのれば、必おつるよしいひ傳へたり。

 

胡仁仲(**)いへる言あり。君子爲名誉而爲善。則其 杵必不議。人臣爲利禄而効忠。則其忠必不盡。と

  

 

(*)瘧:(オコリと読む。《隔日また周期的に起こる意》間欠的に発熱し、悪寒(おかん)や震えを発する病気。主にマラリアの一種、三日熱をさした。)

 

(**)胡仁仲:不詳

 

 撮影:2020/04/24

 

 

 手前の石垣で区切られた道が当時の村道であると言われている。

 

画像:2020/04/24撮影。墓碑前の掲示板。

 

 

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いへり。義統君ふた丶び家を起し、世に出べき人にして、加兵衛是に屬し力戰を勵(はげま)さば、其心いまだ知べからず。義延を守立んため、遠国より志て上る所に、不慮に義統に出あひ、世に出べきと思ふ義延に屬せずして、必亡ぶべき人と思ひし義統にしたがひ、舊君につかふるの義を守りて、死を以是にゆるしたる事、是古人の所謂無ㇾ所爲面爲ㇾ之者也といひつべし。古より式勇の名を顕せし士、日本において其數をしらずといへども、多くは血氣の勇より出て、其こ丶ろざす所は、名をあげ利禄をとり家を起さんため、又あるひは我身は不孝にして死す共、子孫の後榮を願ひてなす者なり。是亦國に益なきにあらざれば、大將たる人の尤賞すべき事にはあれど、君子みづから修むるの道においては、貴ぶに足ざる所なり。只身をも家をもわすれ、子孫の榮を期する心もなくて、一筋に君の爲に忠義をのみ志して、力戰の勇ある事吉弘が如

 

 

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 き眞の義士は、古今頗すくなき事なり。是志士の貴ぶ所、君子自修の道かくの如く成べし。

 

如水は安岐より南の方へ押行給ふ所に、石垣原より二里前頭無(かしらなし)(又頭成ともいふ)(*)といふ所にて、南の方より早飛脚二人出來り、井上野村等今日石垣原にて大友の勢と合戦し、身方勝利を得、義統は立石の要害に立籠られ候由申ける。如水聞て悦び給ふ事限なし。又久野次左噺門、曾我部五右衛門が討死したる由を聞て、悲み給ふ事も又浅からず。其時如水家人田代斎助といふ者を召て、汝はいそぎ先陣へ行て、井上九郎右衛門、野村市右衛門などに申べし。今日石垣原において義統と合戦し勝利を得候由、手柄の至神妙なり。然るに義統立石の要害に籠りたる由聞ゆ。かまへて此方より聊爾(れうじ)(**)にか丶り軍すべからず。身方の備をよく調へて、某が本陣を待候へとぞ仰遣いされける。其日の晩景に及で、如水實相寺山(***)に着て山上に陣を取たまふ。先手二陣左右の備後備、一勢々々引分で備を立

  

 

(*)頭成:別府湾頭成港(大分県速見郡日出町)

(**)聊爾(れうじ):軽はずみなこと。考えなしにすること。また、そのさま。

(***)實相寺山:

 

 撮影:2020/04/24。この石碑が在るのは、實相寺山ではなくて、角殿山(加来殿山)南面。

 

撮影:2020/04/24。加来殿山は現在は住宅地として整備され、美しい家々が立ち並ぶ。

 

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陣を取。實相寺山より義統の陣立石(*)迄は、纔二十四五町には過ざりける。井上九郎右衛門、野村市右衛門等如水の前に參り、今日石垣原の軍を委く語る。其の翌日實相寺山にて昨日打取し敵の首實檢せらる。吉弘加兵衛が首をば、後藤太郎助内、小栗次右衛門持出る。又大友の士に吉良傳右衛門とて、かくれなき勇士あり。生捕の者共申けるは、昨日討たれ候者共の首の中に、吉良傳右衛門首の見えざる亊不審に候。此者大剛の武士にて候へば、時の難儀を見ては、必命生て落行べきものにあらず候。如何様にも委く點檢し給へかしといひける。時に九郎右衛門が郎等に大村六太夫といふ者進み出て申樣、其傳右衛門と申者の面は、いかやうに候かと云けるに、生捕の者答て、癩病の者の如く其見苦しき面體にて候。士の首とは見え申まじく候とぞ申ける。六太夫申けるは、扨は昨日取し首なるべし。昨日の戰に胄什の首二取て候が、其内一の首は餘にきたなく、癩病のやうに見え候

  

 

(*)義統の陣立石

 

 撮影:2020/02/25。大友義統本陣跡。昔の南立石村にある。すぐ近くに義統が降伏前の15日に剃髪した

 海雲寺がある。

 

 

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故、實檢にも出され申まじきと存、藪の内にすて候を、家人其跡より取て歸りしなり。其首出し候はんとて、急ぎ我が陣屋より持來る。生捕共是を見て、うたがふ所もなく、是こそ吉良傳右銜門にて候へ。此者討とられ候はば、左こそ骨ををられ候はんとぞ申ける。吉良傳右門は敵の先陣の内に在て、身方の先陣を追て、濱邊を行て歸りける所を討取けるとぞ。昨日討取し首帳をつけさせられけるに、井上九郎右衛門手に討取首數二百二十七、此内胄付七十六。野村市右衛門手に百八十八、此内胄付五十八。後藤太郎助手に六十九、 此内胄付二十八。時枝平太夫手に首數十二、此内胄付五。其外にも小身の士打取し首數多あり。以上首數五百餘なり。別府といふ村の西の野に。かぶと付をば上の段に、雑兵の首をば下の段に、二筋にかけならべたり。凡今度高名せし者、直參はいふに及ばず、陪臣(ばいしん)まで早速感書を賜りて褒美せられ、歸陣の後武功の品に依て賞禄を宛行はれ

 

 

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ける。其配當各其節にあたりて増減しがたく、諸人の恨なかりし也。井上九郎右衛門、野村一右衛門が、今度の戦功抜群なりとて、如水より先當時の褒美のしるしとして、井上には腰刀、野村には鞍馬をぞ賜りける。又長岡越中守家人には、魚住右衛門兵衛、中村次郎右衛門といひし者、松井有吉に屬せしが、二人の勇勝れたりとて、如水より感書を與へらる。是に依て彼二人には、長岡忠興より賞禄を賜りけるとぞ聞えし。

 

凡石垣原の戰は、遠境偏土なれば、さばかり世の聞えも有まじきやうなれど、すべて地は人によりて顧るるためしなり。されば如水といふ良將の下にて、久野井上野村など、いずれも名高き勇士と、敵方には吉弘宗像など、さすが音に聞こえし驍武の輩出合て、勝負を決せし戰なればにや、此軍の事凡天が下にかくれなく、後代まで世の人美談とする所なり。近き比(*)まで、雨ふりていとくらき夜中に此野

  

 

(*)比:ころ。時分。

 

 

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原を行過れば、往々鬼哭するにや、人のなく音聞ゆる由、彼原(*)に近き里人かたる。又彼原のしばを土民ほり取て屋の棟をおほふ事あるに、其しばの内に、しばしば古き鐡のまじりてある由きこゆ。是まことに古戰場のしるしなり。

 

 

(*)石垣原:

 

 画像:べっぷの文化財No.44 別府市教育委員会/別府市文化財保護審議会 平成26年、P15

 画面奥に南立石村の大友陣所、画面右に實相寺山の黒田陣所、下に石垣村の吉弘卒塔婆を描く。

 

 

 

 

 

 

 

黒田家譜卷之十二

 

 

 

 

 

 

 

付記

 

 現在實相寺山に登ると頂上に説明板があって、簡潔に合戦の模様を教えてくれる。写真と説明文をここに付け足しておく。

 

 

 

 

 

 

以上。