16. カペッラ・パラティーナ、パレルモ、1140年代
画像:2010/05/11撮影。画像181とほとんど同一。
カペッラ・パラティーナに立って円蓋を見上げるなら、眼に映るのはふつうのビザンティン聖堂、ビザンティン・モザイクである。しかし東を見れば(図181)、アプシスには第2のくキリスト・パントクラトール〉がそびえ、その下に聖人にはさまれて坐像の〈聖母〉がいる(この場合は西欧風にマドンナと呼ぶ方がいいほど)。パントクラトール自体はビザンティン的に見えるが、アプシスにこのようにパントクラトールを配する例は、ビザンティン聖堂にはほとんど見受けられない。彼が手にする開いた書物には、左頁にギリシア語、
右頁に同文のラテン語が記されている。(私は世の光である。私に従う者は暗闇のなかを歩かず、命の光を持つ」(ヨハネ,8:12)。下部の聖母は明らかに異なる様式で描かれているが、これは18世紀にオリジナルの窓をふさいだときの追加によるものである。
引用文:『初期キリスト教美術』John Lowden 益田朋幸訳、岩波書店 2000, P311
画像:『初期キリスト教美術』John Lowden 益田朋幸訳、岩波書店 2000, P310
画像:『初期キリスト教美術』John Lowden 益田朋幸訳、岩波書店 2000, P313
182
カペッラ・パラディーナ、パレルモ
南を望む内観
画像:2010/05/11撮影。1142- 43 モザイク、降誕
画像:2010/05/11撮影。Cappella Palatina, Palermo, Sicily
1142- 43 モザイク、イサクの燔祭(はんさい)
17. スヴェーティ・ジョルジェ聖堂、クルビノヴォ、マケドニア(Sveti Djordje, Kurbinovo)
画像:「聖母子」1191年、『ビザンティンの聖堂美術』益田朋幸
中央公論新社 2011、P38
注:浅野レポートも併せ参照をお勧めする。
画像:Google Map, 2016
画像:「昇天」1191年、『ビザンティンの聖堂美術』益田朋幸 中央公論新社 2011、P47
(Iconography 34. The
Ascentionを参照のこと)
18. パナギア・トゥ・アラコス聖堂、ラグデラ、キプロス
Panagia (Our Lady) tou Arakos, Lagoudera, Cyprus
画像:ラグデラ、パナギア・トゥ・アラコス聖堂外観 画像:Google Map, 2016
画像:北壁、パナギア・トゥ・アラコス聖堂、1192年、
『ビザンティンの聖堂美術』益田朋幸 中央公論新社 2011、P180
部分拡大図:
画像:洗礼者ヨハネと祭司シメオン
『ビザンティンの聖堂美術』益田朋幸 中央公論新社 2011、P181
(注:パナギア・トゥ・アラコス聖堂の美術史上の意義については、Iconography 48. 受難の聖母、を参照せよ)
19. ストゥデニツァ修道院、セルビア、13世紀初頭
画像:ストゥデニツァ修道院(Studenica Monastery)、クラリェヴォ、セルビア
解説:
この修道院は中世セルビア王国の建国者であるステファン・ネマニャが1190年に設立したものである。修道院は城壁で囲まれ、生神女聖堂と「王の聖堂」という、ともに白い大理石でできた二つの付属聖堂を擁している。
この修道院は何よりも13世紀から14世紀にかけてのビザンティン美術の精華と見なしうる美しいフレスコ画群の存在で知られており、1986年にユネスコの世界遺産リストに登録された。
画像:Google Map, 2016
画像:磔刑、1209年、壁画、セルビア、ストゥデニツァ修道院
ストゥデニツァ修道院のきっちりとした截石積みの建築、外壁を大理石で覆い、西入口と車窓を彫刻で飾るやり方は、まったく非ビザンティン的に見える。建築家と石工(彫刻家を含む)はダルマティア沿岸から連れて来たものだろう。しかし内部の壁画は、スラヴ語銘にもかかわらず完全にビザンティン美術に属する。西壁を巨大な〈磔刑〉(図234)が占めている。クルビノヴォ(図218参照)などの12世紀末の壁画と比べて、ストゥデニツァ修道院の様式はより静謐で自然主義的である点で際だっている。極端にひき伸ばされた人体や、からまりあう襞の流行はすぎ去った。堂内の他の壁面では、モザイクを模倣する傾向が目につく。背景に金箔をおいて、テッセラに似せた線を描き加えているのである。
(解説:『初期キリスト教美術』John Lowden 益田朋幸訳、岩波書店 2000, P380)
20. スヴェーティ・クリメント聖堂、マケドニア, 13世紀末
画像:スヴェーティ・クリメント聖堂 (the Church of the Theotokos Peribleptos of Ohrid)
引用:
スヴェーティ・クリメント聖堂(聖クリメント聖堂)は1295年に建てられた聖堂で、もとは生神女に献堂されていたが、聖クリメントの遺骸が移されたことに伴い、その名を冠して呼ばれるようになった。描かれている壁画には創建当初の年号とともに、手がけた2人の画家ミハイル(ミヒャル)とエウティヒオスの名が記されている。この2人はセルビアやマケドニアでいくつものフレスコ画を手がけており、明暗の示し方や色彩の配置などに特色がある。
画像:Google Map, 2016
画像:『初期キリスト教美術』John Lowden 益田朋幸訳、岩波書店 2000, P406
255
壁画
オフリド、マケドニア
スヴェーティ・クリメント聖堂
1295年
聖母の嘆き
引用:『初期キリスト教美術』John Lowden 益田朋幸訳、岩波書店 2000, P404
師匠格の工匠はビザンティン帝国領のみならず、その外にまで仕事の場を求めた。この可能性は先立つ章でも検討されたが、興味深いのは2人組の画家、ミハイル・アストラパスとエウティキオスの場合である。彼らの署名が記された3聖堂の壁画は、いずれも最高
の質を誇る。オフリドのテオトコス・ペリブレプトス(「祝福された」、現スヴェーティ・クリメント)聖堂、スコピエ近郊チュチェール村のスヴェーティ・ニキタ〔聖ニキタス〕聖堂、その40 km
ほど北西、スタロ・ナゴリチノ村のスヅエーティ・ジョルジェ〔聖ゲオルギオス〕聖堂がそれである。オフリドは壁画のギリシア語銘によって1295年、スタロ・ナゴリチノはスラヅ諧銘によって1317-18年の装飾とわかり、チュチェールはおそらく1307年以後に位置づけられる。
注:浅野和生氏レポートにスヴェーティ・クリメント聖堂についての詳しい報告がある。