小倉城2

2022/04/01

 小倉城のパンフレットに記載されている歴史的事実を抜き出すと次。

 

 そういえば、本丸公園のなかに巌流島決闘の彫刻がありましたよ。

 

 

 武公伝 - Wikipediaによれば、

 

巖流小次郎は富田勢源の家人で、常に勢源の打太刀を勤め三尺の太刀を扱えるようになり、18歳で自流を立て巖流と号した。その後、小倉城主の細川忠興に気に入られ小倉に留まった。

慶長17年に京より武蔵が父・無二の縁で細川家の家老・松井興長を訪ね小次郎との勝負を願い出た。興長は武蔵を屋敷に留め、御家老中寄合で忠興公に伝わり、向島(舟島)で勝負をすることになった。勝負の日、島に近づくことは固く禁じられた。

 

勝負の前日、興長から武蔵に、勝負の許可と、明日は小次郎は細川家の船、武蔵は松井家の船で島に渡るように伝えられた。武蔵は喜んだが、すぐに小倉を去った。皆は滞在中に巖流の凄さを知った武蔵が逃げたのだと噂した。武蔵は下関の問屋・小林太郎右衛門の許に移っていた。興長には、興長への迷惑を理由に小倉を去ったと伝えた。

 

 

試合当日、勝負の時刻を知らせる飛脚が小倉から度々訪れても武蔵は遅くまで寝ていた。やっと起きて、朝食を喰った後、武蔵は、太郎右衛門から艫を貰い削り木刀を作った。その後、太郎右衛門の家奴(村屋勘八郎)を漕ぎ手として舟で島に向かった。

 

画像:歌川国芳 岸柳島報讐図 巌流島の決闘★歌川国芳展から

 

待たされた小次郎は武蔵の姿を見ると憤然として「汝後レタリ(来るのが遅い!)」と言った。木刀を持って武蔵が汀より来ると小次郎は三尺の刀を抜き鞘を水中に投げ捨てた。武蔵は「小次郎負タリ勝ハ何ゾ其鞘ヲ捨ント(小次郎、敗れたり。勝つつもりならば大事な鞘を捨てはしないはずだ。)」と語った。小次郎は怒って武蔵の眉間を打ち、武蔵の鉢巻が切れた。同時に武蔵も木刀を小次郎の頭にぶつけた。倒れた小次郎に近づいた武蔵に小次郎が切りかかり、武蔵の膝上の袷衣の裾を切った。武蔵の木刀が小次郎の脇下を打ち骨が折れた小次郎は気絶した。

 

武蔵は手で小次郎の口鼻を蓋って死活を窺った後、検使に一礼し、舟に乗って帰路に着き半弓で射かけられたが捕まらなかった。

(引用:宮本武蔵 - Wikipedia

 

 なお、北九州市には巌流島を見渡せる手向山に宮本武蔵顕彰碑がある。

 

 

 今回は小倉市手向山まで出向けませんでしたが、近い将来是非訪問したいと思っております。

 

 

 さあ、これで小倉城は見終わりました。

 

 

 このあと私は勝山公園を横切り、南下して風の橋まで歩いたのですが、

 

 

TOTOの川沿いの桜は、あまりに機械的な植樹で風情がありませんでしたので、見物は中止して、駅の近くで食事をして別府行の特急に乗って帰りました。

 

 

 磯丸水産小倉魚町店というあまり綺麗ではない食堂で、わずか¥1,000でこれが出てきた。これって高いの? それとも安いの? 上にかける醤油が魚醤油といったかな? それとも小倉醤油といったかな? それとも昆布醤油? あるいは甘口醤油? 教えてもらったのだけれども思い出せない。疲れていて、まったく痴呆状態! 年寄りというのは最後にはこうなるんだ。放浪状態だな!

 

 

 では皆さま、御機嫌よう。