中書島-黄桜酒造と月桂冠

2023/01/27

画像:GoogleMap,2023

 

 伏見稲荷大社でこれでもかこれでもかのお祈りを済ませたら、気持ちは軽くなったので、気分一新、改めて京阪電車に乗り、中書島に向かった。

 

 中書島では、駅で降りてから赤点線に従い、まず龍馬通りの橋(蓬莱橋)の袂でしばらく休み、次に寺田屋へ入り充分見物させていただいてから、角を左に折れたところにある鉄板焼きや「咲蔵」でかんたんに食事をして、キザクラカッパカントリーで清水崑の垢抜けた漫画を懐かしく拝見し、そこから南方向に歩き、風格ある街の佇まいが美しい大倉本家に出て、月桂冠大倉記念館を見物した。素晴らしい建物と酒造道具のコレクションに目を瞠った。

 

 大倉記念館を出た私は、大手筋商店街に出て、この商店街の充実ぶりに驚いた。素晴らしい商店街で、こんなに充実した商店街を私は最近目にしたことがない。シャッターを下ろした商店がなく、喫茶店やコーヒーショップが繁昌しており、昔の日本の繁華街がそのままのこされている、という妙な感慨を覚えた。

 

 

 

 

 中書島駅を降りてすぐ駅前に在った案内板がこれだ。

 

 

 文面から読み取れるように、伏見は京都と大阪の間にある交通の要所であり、水運がこの街の要だったのですね。

 

 

 蓬莱橋を渡る。

 

 

 あとで大倉記念館で見かけた1596年の伏見の地図ですが、部分拡大をすると、画面の右が宇治川の滔々たる流れで、現在の蓬莱橋もその西側の京橋の位置も今とほとんど変わっていません。画面の一番下を流れているのが、東高瀬川で、鴨川はもっと下(西)です。

 

 

 寺田屋は、幕末の時代には、寺田屋浜の一区画北にあったのに違いありません。

 

 

 これが寺田屋。史跡寺田屋と書いてある。

 

 

 右側に記念碑塔が立ち、入り口もここから。

 

 

 同じ大倉記念館のなかの遊覧地図「大川便覧」(1843年)がこれです。この地図を読むと、伏見は宇治川沿岸にあって、三十石船が大阪からやってきた終点であることも理解できます。現在京都の街を流れている鴨川はこの地図のはるか下(西側)であります。森鴎外の描いた高瀬舟森鴎外 高瀬舟 (aozora.gr.jp)は鴨川沿いですから、この地図には現れません。

 

 こうやって、昔の地図を参考にしながら読むと、「三十石船」の記述もよくわかりますね。

 

 なお、幕末の寺田屋襲撃事件については寺田屋遭難 - Wikipedia並びに、次のブログを参照いただければ、当時の様子がありありと想像することができます。

 

 

幕末に起きた2つの寺田屋事件 その舞台・京都伏見に今も残る痕跡 - HISTRIP(ヒストリップ)|歴史旅専門サイト

 

 

 位置関係は、

 

画像:寺田屋パンフレットより

 

 坂本龍馬の隠れた材木小屋は、現在の大手筋通が濠川に架かる橋の西端北側であったことが分かります。

 

 

 寺田屋遭難(てらだやそうなん寺田屋遭難 - Wikipediaは、幕末慶応21月2318663月9)、京都薩長同盟の会談を斡旋した直後に寺田屋に宿泊していた坂本龍馬と護衛役である長府藩士の三吉慎蔵が、伏見奉行の捕り方に襲撃された事件[1]

 

 私はこの伏見へきて、周辺を歩き回り、初めて幕末の実際を身に沁みて実感しました。伏見へ来なければ、この感慨はなかったでしょう。私の最近の史跡巡りでは最良の経験でした。

 

 大倉記念館には沢山の資料が展示されており、私のような新参者には最高の資料館でした。お勧めします。