黒田家譜巻之十二(2)

2020/05/13

 

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此時如水(*)は、領内の境目城普譜巡見すべしとて、近習の士只兩人召つれ、中津川より小船に乘出給ひしが、領内の城へはゆかずして、舟をば是より東へやるべしと云付、夫より東をさして漕行ほどに、豊後國國崎郡垣見和泉守家純が富米の城、それより三里巽の方、同郡の内熊谷内蔵充直陳が安岐の城の前を、しづかに漕通りて巡見し、夫より三里南、細川越中守忠興の領地、木附の城下へ舟をつけて陸に上り給ふ。忠興は丹後國(**)を領し、宮津に在城有しが、近年秀頼より此地にて加増を給はり、家人を此地に下し置れしなり。忠興の家老松井佐渡、有古四郎右衛門兩人を呼出し、案内者として城をめぐり見給て、我只今爰に来る事、別の子細にあらず。上方兵亂出來ぬる由聞ゆ。定て此城へも敵寄來るべし。越州は我が知音(***)なり、其上身方なれば、内府公の御ため、城の要害あしき所あらば、指南して堅固にさせん爲に、はるばる是まで來りたり。此城要害然るべからざる處有之由

 

 

 

(*)如水

 

 画像:黒田官兵衛(如水) 

 

 

(**)丹後國

 

 画像

 

(***)知音:ちいん。互いによく心を知り合った友。親友。

 

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仰ければ、兩人申けるは、只今の折節、遠路を御しのぎ此地へ御見廻候事、越中守ためにかたじけなき御志にて侯。此よきついでに、此城の要害あしき所御覧じわけられ、御指南を蒙り候はゞ、堅固に改め置べき由申ければ、如水爰かしこ改候へと、委細指南せられける。其日晩景に及で、如水は木附より船にのり歸り給ふ。安岐富來(*)の城下を夜中に漕通り、明日中津川へ着給ふ。扨こそ其後豊後へ發向し、木附の城の後詰、並安岐富來の兩城を攻給ふ時に、かねて城の要害見置給ふ事なれば、攻やうの手立、人数の手配等何の滯もなく下知し給ひける。

 

八月中旬如水家老を呼出し、來九月九日是より東表へ發向すべし。此旨を家中の諸士に申ふれ、陣用意をなさしむべしと下知し給ける。家老評議して如水に申けるは、家康公猶關東におはしまして、いまだ上方へ御發向の由聞えず候。おなじくは上方御合戦の注進を御聞候て後、御出陣然るべく存候。い

 

 

(*)安岐富來(あき・とみく

 

 画像:べっぷの文化財No44、別府市教育委員会/別府市

文化財保護審議会 平成26年、P5

 

 

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まだ共聞えもなきに、私に軍を御出し被成候事、然るべからず候。其間しばらく御待候へととヾめければ、如水聞拾て曰、いやいや其儀然るべからず、治郎少輔が叛逆は既にあらはれたり。此上は内府公御發向の一左右(いっそう)を聞に不及、九州にある石田が黨類(*)を悉誅伐すべし。其上家康公既に上方へ發向し給ふを待て、我が軍を起さば、既に上方の合戰有て後の事なるべし。左あらば其間は敵身方の勝負を考へ、時節を待たるに似て、武道の本意にあらず。いまだ内府公御發向の注進なき以前に兵を起し、九州を平げてこそ、如水が家康公への忠義とはいふべけれとのたまふ。かくて九月九日も近づけば、いよいよ人多くか丶へよとて、乂金銀を多く取出し渡されける。杉原某申けるは、餘りに人多く來り集り候故、はじめ着到に付て金銀請収候者、又來りふた丶び着到に付、金銀を取申者可有之かと心をつけ申處に、案の如く、ふた丶び參候者を見付からめ置候、いかが仕るべきやと申

 

 

(*)黨類:なかま。くみ。徒党。同類

 

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ければ、如水聞給て、斯樣の時は、一人にても着到に人數の多きを、敵身方に聞せたるこそよけれ。是敵の気を屈し、身方の気をいさむる助なり。然ば再來りて着到に付金銀を取者、少々有之とてもくるしからざる事なり。扨々汝は心得ざる者かな、いらざる吟味だて、時に取て無益なりとて、却ていましめ給ふ。

 

かかる處に、前の豊後の国主、大友左兵衛督義統は、先年朝鮮にて、大明の大軍を防ぎがたく思ひて、敵の来らぬ先に、朝鮮の都まで引退きたる咎により、秀吉公より豊後国を召上られ、義統をば毛利輝元に預け給ひ、周防の山口に蟄居せられけるを、今度秀頼の命と稱して大坂へ召上せ、毛利輝元、増田右衛門尉より申付らる丶は、今度義統に本国豊後を返し賜り候間、いそぎ豊後へ下り、一族郎従をあつめ、早く軍を起し、豊後の七人衆の内、在国の人々、幷(*)豊前小倉の城主毛利壹岐守など牒じ合せ、黒田如水を攻ほろ

 

 

 

(*)幷:あわせる

 

 

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ぼし、西國を打治むべしと命ぜられ、先當時の軍用として馬百疋、具足百領、長柄の鎗百本、鐵砲三百挺、銀子三千枚、義統に下さる。義統本望をとげ、喜悦の眉を開きて、頓て(*)豊後へ下向せらる丶由、彼早船にて大坂より告來り、大坂下向の事、はやく中津川へ聞えければ、如水此度大友を誘引して身方にせんため、家人宇治勘七といふ者に、大神大學といふ浪人を添て、周防國上の關(**)へ遣しをかる。此大學は初は義統の小扈従(***)なりしが、義統蟄居の後浪人となり、中津川の町に居住しけるを呼出し遣さる。大學は、今博多の冨商大賀氏の遠祖なり。大友滅亡の後、剃髪して宗九と名つけ、前の姓大神の字改て、大賀とす。中津に於て、如水長政懇意にし給しに依て、長政筑前拝領の後したひ來りて、博多呉服町に居住せり。何かと長政の用事をつとめしに依て、知行を給ふべき由申けれ共、堅く辭退し商家となれり。其子孫兩家にわかれ、善右術門、惣右衛門、といふ。正保四年長崎に異船來りし時、兩大賀長崎に在りて、焼討ちの焼草等を速にそなへたりし功に依て、忠之其を感稱し、此時より兩大賀に月俸許多賜り、子孫相續し、今に於て、博多呉服町に居住せり。家老共申けるは、大神大學は、義統の傍に召仕はれ、義統に内通し、此城の案内、身方の分限をもしらする事有べく候間、使に遣さるヽ事然べからずと申ければ、如水聞給て、

 

 

 

(*)頓て:「とんて」と読む。「急に」の意。

(**)上の關:現在の地名 上関町 かみのせきちょう

 

 

中世から戦国期にかけて上関は村上水軍と、その同盟関係にあった毛利氏の重要な海上拠点のひとつとなっていた[2]

 

(***)扈従:小姓は、主君に近侍して雑務や日常生活に必要な取り次ぎをすることが主な仕事となっていったが、建前上の役目の第一は、将軍・藩主などの主君の警護であった。

 

 

 

 

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義統に内通すべき者なる故に遣すなり。大學を遣すは心ある事なり。大學此城の案内と、兵の多少をつけば、大友此町を燒、城を攻る謀を思案すべし。我は大友に城を攻られぬ内に、此方より早くか丶りて勝負を决すべし。然れば何程に此城の案内を精く聞たりとも、やくに立させぬ也。此度の軍の術謀を、大學にいひ聞せて、大友に告させ、此方には其うらを用る也。義統若大學をとヾめられば、勘七は其座を罷立べし。又勘七には、大友が船數いかほど有べきと、能見て參れと命ぜらる。大友に贈り給ふ其書状の大畧は、今度の石田治部少輔亂を起し、内府を討んとす、石田は天性小人なれば、秀頼を守護せん爲の義兵にあらず。全く私欲に依て天下を奪はんとの謀なり。然るに輝元は安國寺といふ侫人にたぶらかされ、石田に與し、其外の諸大名も亦此事をしらずして、みだりに治部少輔に與す。今内府は天下の人の思ひ付所の賢君にて、八州の主なれば、其威勢既に盛なり。且武勇知謀

 

 

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古今に勝れたる良將なり。相與する人又猛將勇士多し。治郎少輔不義にして亂を起し、諸人の與せざる所、天罸遁れがたし。况無智にして兵の道をしらず。たとひ大軍なりとも、かりあつめたる寄合勢にて、治部少輔が下知にはしたがふべからず。諸軍の下知を聞く総大將なくして、必軍に利あるべからず。貴殿今度治郎少輔にしたがひ給はゞ、必身をほろぼし家を失ひ給ふべし。然れば貴殿の死生存亡の落着、此時に有之候間、能く御分別あるべし。殊に御子息義延(*)も、内府に屬せられ候へば、内府方に參じて忠勤を御はげまし、然るべく存ずるなりと申遺され。又口上には。、故太閤の御時、大友家降參の事、我等取次申て候より以來、朝鮮に至るまで、隔心(きやくしん)なく申談じ候事、義純御失念有まじく候。我等も踈意に不存候。隔心なきしるしに、大學を相添進じ候どぞ申遺されける。勘七大學九月五日中津川より舟にのり、順風故其日□晩景に、上の關、着て相まつ處に、七日の晩大友義

 

 

 

(*)義延: 「よしのり」と読む。

 

 

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統上の關に下着せらる。兩人義統の船に行て、如水の狀を渡し口狀を述ける。義統返書の趣にいはく、今度不慮の総劇(そうげき)に付、豊後へ罷下候儀被聞召付、早々預御使札、御厚志大慶存候。誠先年以來御懇情不淺存候。拙者事於配下毛利殿懇意深重(しんぢう)に候へば、此度捨一命可ㇾ報其恩と存候。又御意見之樣に、我等事は年老而、無望候へば、愚息義延を世に出し度存候。内府方をも仕度候。此分別大事の思案にて、是非即時に難决候へば、二三日中豊後へ来着仕、彼方より以使者委曲可申連候とぞ述られける。勘七返書を請取、立んとする處に、義統いかに大學久しく見ざる問に大男に成たり。汝を見て昔の事を思ひ出たり。今少語れとて留められければ、勘七は罷立、跡にてしばらく物語させてけり。義統大學に何事をかとはれけん、いざしらず。其後勘七も大學も舟にのり、明る八日中津川(*)へぞ歸りける。

 

大友の返書、同心なくして、其上豊後の七人衆、

 

 

 

(*)中津川:中津城の下を流れる川。