Squishy Talk

2023/03/05

 さて残る登場人物は

 

1.     Squishy Talk

2.     Trilingual Family

3.     BonSoirTV

 

 

の三人となった。この三人はどなたも優秀で甲乙つけ難い人物なのだが、それがゆえに私は興味をそそられて、熱心にYouTubeを観て観察しているのだ。

 

 

Squishy Talkの女性は、それこそ、ウェールズ公ウィリアム皇太子の妃キャサリン、に似て、なんというか、いかにもイギリス人という感じで、ケルトの血が色濃く流れている女性のように感じられます。まことに興味深いタイプです。美人であることは疑いもありません。

 

彼女はタロウという日本人と結婚しているのです。彼女の夫君タロウが話す英語をYouTubeのなかで聞いたことがありますが、それこそ日本人ではなく、英国人の英語ですね。だから、このカップルは日本人ではなくて、英国人カップルなのです。

 

そういうバックグラウンドもあってのことなのでしょうが、彼女は日本語に執着を持ちません。日本語がなくても暮らせるし、彼女には日本以外に帰る場所があるのです。日本語に関心を持つのは、「たまたま一時的に日本に住んでいるから」なのです。

 

 

これが彼女の本質であって、他の二人との間の決定的な差なのです。

 

 

 びっくりドンキーでハンバーグを食べるときのSquishy。なにごとにも驚いて見せる。私は、あなたと違って「ガイコクジン」なのよ、という一種の気負いが見え隠れするいやらしさがある。

 

 

タロウとの結婚について撮影中のタロウと会話するSquishy

 

この写真を見ると、いや凄い。英国人の女性というのはすごい。第一、美人だ。それに金髪だ。着ている薄手の緑色のシャツも素晴らしい、となって、目を離せない感じになりますよね。

 

 

 次の写真

 

結婚を報告したとき、父親が泣いた、という話。

 

 

 このSquishyも素敵ですよね。

 

 

 奈良公園で鹿にせんべいを与えるSquishy

 

 これなどもそうですが、英国人の女性は感情表現が豊かなのです。日本人の女性が逆立ちしてもかなわない凄さがありますね。だから、恋人になった時の相手の男性は「本当に愛されている」と勘違いして、「天にも舞い上がる」ような案配になるのです。

 

 また、二次的に、彼女たちは、そのときの感情をこまめに、正確に、英語で表現しますから、なるほど「表現」というものは大切なものだな、と錯覚するのです。

 

 私がSquishyに個人的に反感をもつわけではありません。むしろ、彼女が使う英語表現に吃驚し、私も英語を使うときはこのように表現できるようになれば良いな、と真摯に考えるほどです。

 

 でも、でも、今83歳になろうとする日本人男性の私は、Squishyをじっと眺めていて、「危ないなあ」と腰が退けてしまうのです。

 

 

 次。

 

 

 今度は法律論。メトロポリタン法(1839)が出てくる。どうやらこれは夫君の作った原稿の読み下しで、彼女の知性に基くものではない。つまり「嘘」。【イギリス法律】知っとくべき?!奇妙なイギリスの法律7選【日英字幕】【国際カップル】 - YouTube この「知性」は彼女の身体からにじみ出ていない。

 

 このようなすぐ分かる嘘をついてくる人間を私は信用しない。

 

 

 

 それは兎も角、私もそうなのだが、私はこのタイプのケルトの血を引く女性を信用しないのだ。私の過去の経験が私にひそやかに教えてくれる。

 

 

 私は今から55年前、メルボルンにいた頃、スワンストン通りから電車にのって帰る地域のフラットに彼女のような女性がいたのだ。つまり、「通い婚」なのだが、squishyに似て美人で、英語表現に厳格で、しかもアメリカの大会社の豪州社長秘書をしていたから、彼女の書く字体の美しさは教科書そのものだった。

 

 

 私はこの美女の社長秘書に手を焼いた。話が最後に落ち着く先は、必ず「私を愛しているか」の基本問題だ。これしか存在しないのである。

 

 日本人からすると、相手の性格、こちらの財力、相手の血縁、こちらの親類などと(その他にもいろいろあろうが)必ず、判断基準に複数の根(解答)が存在していて、総合判断で物事を決定するでしょう。必ず総合判断するものなのです。

 

 ところが相手は白人の米国人で2代前は欧州出身なのですから、欧州風に事を決するのです。誰かさんがメトロポリタン法を持ち出すように。

 

 彼女の論理は徹底的に「愛情」なのです。「愛しているかどうか」なのです。「愛」があれば、OK。「愛」がなければ、崖から転げ落ちるのです。

 

 この単一の判断基準でケルトは相手の男性をギリギリまで追い詰めます。「愛している」ならば、OK。「愛していなければ、家から出ていけ」の単一規準の判断です。困りますよね。

 

 

 言葉を替えると、絶対性の問題です。彼女たちにとっては「愛」が絶対なのです。そして愛だけがこの世に存在する「絶対的存在」なのです。哲学的に言うと、これはヒトラーの好む絶対性です。ベルヒテス・ガーデン思想です。英国人が作り出した民主主義という哲学とは真逆の思想です。

 

 

 1966年、私がメルボルンに到着して早々、サウス・ヤラの別のフラットに住んでいた頃、私のフラット(下写真)の三階に一人の日本人が住んでいました。この人は大層に頭が良く、東京大學を卒業して、どういう訳かこのメルボルンに住んでいたのです。勤め先はABCでした。国営放送局、日本でいえばNHKです。まことに羨ましい限りの学歴と勤め先でした。

 

画像:GoogleMap, 2023  Park St.に現在も残っているflat。私が住んでいたのは一階の手前隅の部屋。

 

 ところが彼は私を日曜日の昼になると私を呼びつけるのです。表向きは昼食を御馳走する、という口実ですが、実は真の目的は、彼の家族との日曜日の昼食に私を同席させることでした。

 

 彼はなんとメルボルンで非常に美しいaussieと結婚し、女の子を二人作ったが、彼女は子供を産んだあとで別居し、オーストラリア人の男性をボーイフレンドにしたのです。

 

 彼女は日曜日になると、このアパートの三階にある秋草さんの部屋に来て、娘達を父親と会わせることを口実として、秋草さんに食事を作らせ、娘とともに食べるのですが、その際必ず、ボーイフレンドを連れてきて、皆の目の前でイチャイチャするのです。キスしたりハグしたり、その他やりたい放題。

 

 

 私は頼まれ同席という身分ながら、その場の光景をまるで地獄だと感じました。幼少の娘二人と別居した夫の前で、妻がボーイフレンドとやりたいことをするのです。

 

 これ精神的拷問ですよね。 ナチス思想が作り出す地獄風景です。私はそれまで金沢の巨大な幸福な家庭しか味わっていませんでしたから、この風景を見て、驚愕しました。この光景が、以降私のトラウマ(心の傷)になっているのです。

 

 私はこの拷問を二時間耐え抜きましたが、こんなことってある? 日本では考えられない事態ですよね。

 

 このときの恐ろしさが蘇ります。これが西洋の怖さなのです。彼らは「愛の絶対性」を回転軸にしたメリーゴーラウンドに乗って遊ぶのです。

 

 

 SquishyさんをYouTubeで眺めていると、悪いけど、またあれが始まるなと感じます。「愛の絶対性」か「複数価値の総合判断」か、どちらにするかの判断を再度求められている気持ちになるのです。

 

 

 

 悪い話を聞かせて御免なさい。

 

 皆さまにはどうぞご機嫌よく。