抜粋3

2020/12/15

益軒全集巻之五 P191

黒田家譜巻之六

 

 

91b1

 

をかけられども、時刻へだたりたる事なれば追つかず。引おくれたる雜兵少々打留たるまでにて、軍はなかりけり。小西は大友が城(*1)まで引退て城中へ入けれども、一人もなく落失(*2)にければ、力を落しける。此間の戰に士卒力つきて、はかばか敷道をもゆかず、爰にてしばらぐ休息せしが、此城に久しく留らば、敵定て追付來りなんと思ひ、叉夜中に城を出、終夜引退きける(3)漸夜も明ゆけば、さきの山下に中白の旗(*4)見えたり。是は小河傳右衛門が籠りし龍泉の城なり。小西、扨は黒川はいまだひかざりけりと思ひ、大に競ひ、諸卒に向ていひけるは、扨も柔弱なる大友かな。日本一の大剛の大將は黒田なり。もはや黒川が城近し。一同にぎほへ兵共といひければ、士卒皆力を得て悅びける。さるほどに江南人小西の跡をしたひて追來る。唐人は弓馬達者なれば、けはしき山上へかけ上り、兩の峰より谷間に乘下し、日本人を下に見おろし、兩方より中に挾んで是を射る。日本人は又鐵砲

 

 

(*1)大友が城 鳳山を指す。位置は次。

 

              画像:鳳山の位置を赤矢印でしめす。

                 原画は『豊臣秀吉の朝鮮侵略』北島万次 吉川弘文館 1995 P38

 

(*2)落失 「おちうせ」とよむ。戦場から逃亡していなくなる。

 

 (3) 終夜引退きける。

    この時の小西行長軍の敗走を柳成竜『懲毖録』平凡社 P179は次のように伝える。

 

賊将平〔小西〕行長、平〔宗〕義智、〔僧〕玄蘇、平〔柳川〕調信らは、残りの軍を率いて〔連日〕連夜遁走したが、気力は萎()え、足はまめだらけで、びっこをひきながら行き、あるものは田の中を這いまわったり、口を指して食物を求めたりした。わが国では、誰一人出て〔この人々を〕撃つ者はなく、・・・・・

 

              更にその脚注(P182)で、朴鐘鳴は次のように説く。

 

日本側の記録にも次のようにある。「手負、病者はすて置かれ、さかしき者も人により、ただ此程のつかれにて、道にはい伏す人も有。一日路ごとに城あれば、これを味方と思いつつ、心強くも来て見れぱ、是さえ先に落ければ、力なくして身もつかれ、親を討たるる人も有、兄を討たるるものもあり。・・・手足は雪にやけはれて、着物はよろいの下計(ばかり)、さも美敷(うつくしき)人なども、山田のかかしと衰えて、あらぬ人かと見も分かず」(『吉野甚五左衛門覚書』)。

 

 ルイス・フロイスの報告にも、「・・・極度の食糧不足に悩まされつつ日夜歩き続けた。その間、激しい飢餓に襲われたが、辺り一帯は雪に掩われていて、食べる草も見出すことができず、雪を囗にしてわずかに露命を繋いだのであった。・・・日本〔軍〕は雪や氷の上を歩き馴れない上に、高麗人や支那人が用いている厚い皮靴の使用を知らず、寒気と水分に弱い草鞋を履いていたので、その苦痛は言語に絶し、多くの者は〔足の〕拇指が〔凍傷で〕落ち・・・」とある。

 

 

(*4)中白の旗

 

 

にて見あげて打ける間、却て防ぎよかりけり。小河傳右衛門は小西が退来るを敵かと思ひ、櫓に上り見居たりけるが、近づくに隨て是を見れば、小西が旗なり。跡より敵したひ来ると見えければ、定て玉藥もつきぬらん、加勢すべしとて、川島七郎左術門、河端八右衛門などいふ者に、鐵砲百丁相そへ、玉藥十荷もたせ、小西が迎に遣しける。小西大に悦び力を得て、川島河端兩人に對しいひけるは、扨も各是まで加勢に來る亊、傳右衛門芳志淺からず。我手の兵共は、一昨夜より終日終夜大敵をのがれ来て、長途につかれたり。其方逹を頼む間、殿(しんがり)してたべと云ければ、承候とて兩人跡備をして、鐡砲百丁段々に立ならべ、玉梟をつめかへつめかへ透間もなく打せけるに、したひ來る江南人散々に打立られ引退く。扨こそ小西は難なくして小河が城に引入ける。傳右衛門申けるは、扨もあれほどの大敵を御打拂ひ、殊に長途をしのぎ是まで來り給ふ事、比類なき御手柄にて候。

 

 

 

92a1

 

此城は兵糧玉藥澤山に有之、要害(*1)もよき處にて侯へば、敵何十萬攻來るともたやすく爰を破らる丶事は候まじ。此間の御合戰、殊に長途を經て是迄御越、大將も士卒もさこそつかれ給ふらん、某(*2荒手(*3)にて候へば、敵をふせぐ事は御まかせ候べし、先上下共に心やすく御休息候へとぞ申ける。又小西が士卒長途をしのぎ來て飢こゞえければ、傳右衛門粥を煮てあたへ、其饑寒を救ひける。小西大に悦でいはく、日本一の勇士は傳右衛門なり。あの大友が大勢にてさへ迯來るに、わづかの勢にて此小城を堅固に持こたへんとするは、稀代の手柄也。此旨早々太閤へ言上すべし。此度の我が命は御邊に助けられたりとて手を合せける。傳右衛門小西が落來りし事を長政へ告たりければ、長政敵若小西が跡を追來らんかとて、いそぎ馳向ひ給ひしが、路にて小西に對面し、ともなひて我が居城白川(*4)に歸り入給ふ。小西は餘寒甚しき時節落人となり、着物も薄かりしかば、衣服をあた

 

(*1)要害 地勢がけわしく、敵を防ぐのに適している所。

 

(*2)某 「それがし」と読み、わたくしの意。

 

(*3)荒手 荒々しい者。荒武者。

 

 

(*4)白川 

 

              画像は『豊臣秀吉の朝鮮侵略』北島万次 吉川弘文館 1995 P38