終戦の日 3

2018/08/27

 

 

 

 こうした久し振りの戦果は出水で待機していた清二を大いに鼓舞させたにちがいない。 上述Wikipedia記事第七六二海軍航空隊ではさらに、

 

              321日 攻406・攻501出撃、12機喪失。

 

記載されている。清二は菊水部隊銀河隊、攻撃第406飛行隊長であったから、この12機のうちの一機を操縦していたものであると断定できる。321日の戦果は記述されていないので、九州南東海域で米軍戦闘機により撃墜されたものとみられる。損失機数は鹿屋・出水を含む第七六二海軍航空隊の損失数であり、出水出撃機総数とは限らない。また、人間爆弾機「桜花」(アメリカ側の通称「バカ」)を伴う第七二一海軍航空隊(第一回神雷桜花特別攻撃隊)が初めて鹿屋から出撃したのも昭和20321日であるが、これにも該当しない。

 

画像:折込内部構造解剖図

 

 

  上が「銀河」の内部模型であるが、清二は隊長であるから中央プレキシガラス風防の中の操縦席に座っていたはずである。操縦席は下図で読み取れるように計器類で囲まれた非常に狭い空間であったが、細身のスポーツ青年であった清二には不都合ではなかったであろう。

 

画像:「銀河」の操縦席

 

 画像:鹿屋航空基地資料館提供

 

 

 清二は攻撃第406飛行隊長であったから、32112:20、「全軍突撃せよ」と全員に攻撃命令を発信してから、航空母艦めがけてダイブしたものと推定できる。

 

  

鹿屋航空基地資料館が清二の遺書として保管しているものは次である。

 

 

 

 

 

 

随分永らくご無沙汰致し申し訳有りません。豊橋より鹿児島の出水に移り そこで毎日毎日の猛訓練を重ね 今 愈々 南のフィリピン「クラーク」へ出撃する秋が参りました。

 出撃を前にひかへて 何も今更言ふ事はありません。

私は 全力を尽くし 敵と戦ひ 最後まで頑張って来ます。

これからは 愈々、北国特有の冬が参りますが 何卒 御身体を御大切に。私は 暖かい南の国へ行きます。

では、お父さん、長い間の御恩を受けるばかりで 何一つ孝行する事もできなかった私をお許し下さい。

  私は国の為立派に働いて來ます。

 なほ、姉さん 冨ちゃん 良三 司郎 彰吾チャン 和佳

 子にも宜しく伝へて下さい。眞柄様吉田様にも

 

 

昭和十九年十一月十六日

             勲八等正八位海軍少尉OO清二

 

 彼の遺書のなかに、「フィリピンのクラークへ出撃」とか、「冬が来るが私は暖かい南の国へ」という記述があることから分かるように、この遺書は出撃日321日に書かれたものではない。前年の1116日、出水で飛行訓練中に書かれた遺書である。すでに前年の秋の時点で、特攻隊で死ぬことを決意していたことが読み取れる。

 

 

 清二が遺書を認めた194411月当時と異なり、出撃した19453月には情勢は痛ましく急変していた。

 

·         310 - アメリカ軍が東京を空襲(東京大空襲)。死者は約10万人。

·         316 - 硫黄島守備隊司令官栗林忠道中将が東京に訣別電報を送る。

·         318 - アメリカ軍がベルリンを空襲。

·         326

·         硫黄島で最後までアメリカ軍に抗戦していた栗林中将配下の部隊が全滅(硫黄島の戦い終結)。

·         アメリカ軍が沖縄県慶良間諸島座間味島に上陸(沖縄戦の開始)。

引用:)