金沢を去る

 

2018/05/20

 

画像青木木米が春日山で築いた窯の様子。小松砂丘画。

 

画面左手が小坂神社。画面右側に春日山窯が登り窯様式で描かれている。

 

 山の上町の交差点から卯辰山のほうに登り始めると、まず小坂神社がある。

 

 春日大社荘園だった土地で、この神社も春日大社の末社にあたり、建立が1688年というから、金沢では宇多須神社の次に古い神社ではないだろうか。

 

 

画像:小坂神社を過ぎてすぐ、坂道の右側に春日山窯跡の記念碑があったのだが、なぜか今は撤去されてなくなっている。

 

画像

 

昔在った春日山窯跡の石碑。

 

画像色絵唐人物図鉢 春日山窯、19世紀/江戸 石川県立美術館所蔵

 

色絵唐人物図鉢 春日山窯/いわゆる大深鉢で、手水鉢ともいうべき形姿である。呉須赤絵風をねらった作ぶりで、主文様として内外の側面に遊ぶ唐人物をめぐらし、見込の小さな円窓内に一輪の牡丹花、付属文様に唐草・花文・四弁花・渦文などを配し構成している。絵具は、赤・黄・緑・紫・花紺青のほか黄緑をも用い、発色は全体に黒ずんでいる。

 

 

 長いこと冬の間、金沢に住んでいた。一人で住んでいた。妻の実家が金沢に建てたマンションの一室に暮らしていたのだ。

 

 金沢は私の生まれ故郷であるし、慣れ親しんだ土地であるから、肌に合って住みやすかった。

 

 ただ自動車は昨年末捨てたから、行動範囲が極端にせまくなり、足で歩ける地域は卯辰山、兼六園、金沢城、片町、武蔵が辻などに限定され、時間的にも二時間以内という風に制限されることとなった。

 

 私が一人で暮らしたいと20年も前に思ったのは、私の執筆活動に関係するもので、家族に囲まれて暮らすより、一人で生活するほうが考えがまとまり易かったからだ。

 

 

 しかし、書くことはもう十分書いた。国立大学の工学部を卒業した輩が、文学部卒業者のような活動をしていたのだから、よく20年間も持ったものだ。もうこれ以上書くべきことはなにもない。書いた本の数も四冊になった。もうこれで十分だ。

 

 そういうわけで、金沢は切り上げて、東京に帰ることにした。 実際のところは、娘から「そろそろ東京に帰ってきてくださいな」という命令口調のメッセージがあったからでもある。

 

 

 

 思い残すところはないか?と聞かれても、「なにもない」と答えることだろう。

 

 

 卯辰山は標高が130m程度の山で、上りやすいものだから、金沢の人は散歩がてらこの山に登る。上の写真は山の上の公園から眺めた光景だが、奥の円柱形の建物は北國新聞で、横に長い城郭は新築された金沢城、その手前左方にあるのが昔からある石川門である。右方手前にあるのが新築なった高等裁判所である。

 

 

 山の下を眺めると、私が生まれた洋館の家が見える。この家は昔、株屋が金にあかして建てた豪華な家で、終戦後は進駐軍によって接収された。今は銀行の所有に帰している。

 

 

 卯辰山を市内を左に見て下り始めると、山中に鳥居があるが、これは豊国神社入り口である。

 

 卯辰山をさらに天神橋の方へ降りてくると、豊国神社の境内を抜けることになる。

 

 豊国神社の狛犬である。

 

 

 天神橋から味噌蔵をとおりすぎてまっすぐ歩き、大手門を過ぎたところに大手堀がある。長細い堀の上に大樹が茂り、心落ち着く景色であり、私のお気に入りの場所だ。私が4歳のとき、西本願寺系の幼稚園である藤陰幼稚園に歩いて通園していたのだが、この大手堀の前を毎日通ったのである。

 

 

 天神橋を渡らずに、右に折れ、観音町の通りを歩いて橋場町に出ると、米澤茶店に出る。この店も私が小さいころからあった。まだ営業しているのだ。

 

 

浅野川大橋に佇むと、主計町(かぞえまち)の落ち着いた家並みが望める。昔から「太郎」という鍋物料理屋があって、私の父がお客の接待によく利用していた。

 

 

 浅野川大橋の反対側を眺めると弧を描く天神橋が望める。最近は和服で散歩する人が多く、結構絵になるのです。

 

 

 このあたり最近はよく散歩しましたから、もう思い残すところはありません。

 

 

画像:石川門下の池で

 

PS

 

 本日も散歩で卯辰山に登ったのだが、卯辰山相撲場で高校生相撲大会が開かれていた。

 

 

非常な盛況であった。静岡県の高校も来ていたので中部地方大会なのかもしれない。金沢学院というのが強いらしかった。