ア―ロルゼン

 2018/06/21

 

画像:GoogleMap, 2018, Arolsen

  私がドイツに赴任してドイツ語の習得のために派遣されたゲーテ・インスティテュート・ア―ロルゼン

の位置。ドイツの国には珍しく工業地帯が皆無の山間地。

 

 私がデュッセルドルフ駐在員になったのは1976年春のことで、大蔵省査察チーム(マルサ)による手厳しい追及逃れが原因の一つだったのですが、大学での(化学)分析実験をドイツ語で学習させられた私は、ドイツ語の文法も当然習得していましたし、戦時中の日本国民のドイツかぶれの影響がまだ残っていたので、ドイツ国への派遣をひどく喜んだのです。

 

 当時私の会社は語学習得のため、赴任後二か月間はゲーテ・インスティテュートで語学習得させられることになっていましたから、私はゲーテ・インスティテュート・ア―ロルゼン校への派遣をひどく喜びました。事実、会社入社以来、ほとんど休みなく働き続けた私に特別の恩賜特別休暇をもらったような感じがしたものです。

 

画像1976年型フォルクスワーゲン・ビートル。私はこれと同じ緑色のビートルを

デュッセルドルフのAvisで三か月間借りました。重量の軽い車ですから、アウトバ

ーンで大型貨物車に追い越されるときは、風速で煽られ、車ごと高速道路から吹き

飛ばされるような恐怖感を味わいました。

 

 

 ゲーテ・インスティテュートの本部はミュンヘンなのに、なぜ山間僻地のアーロルゼンへ行かされたのか?私にも分かりません。会社から申し込みをしたら、アーロルゼンという決定がゲーテ・インスティテュートから返ってきたのです。

 

 その当時でもドイツ国の工業化はすさまじく、ドイツの田舎町には至るところ工場が立ち並んでいたものですが、アーロルゼンは他地域とは異なり、工業地帯が皆無の農林業地帯です。アーロルゼンの住民に「何故に?」と聞いても、答えが返ってきません。ドイツの国のなかで珍しく、産業空白地域だったのです。

 

画像:GoogleMap, 2018  私の通ったゲーテ・インスティテュート・ア―ロルゼンの校舎。戦後ベルギーの

NATO軍がアーロルゼンに駐留していたのだが、その第1機甲偵察連隊の本部が駐留した建物だと聞いた。

ベルギー軍のアーロルゼンからの最終的撤退は1994年だから、その当時ベルギー軍はアーロルゼンにいたは

ずなのだが(引用)、市中にベルギー兵の姿をみることはなかった。ベルギー軍兵舎がどこにあったのかも、

私は知らない。

 

  そのほかアーロルゼンにあったのは、ひときわ目を引くバード・アーロルゼン宮殿で、その一翼でビールが製造されていた。ドイツではビールの醸造免許も歴史的なのだと知らされた。

 

 

 アーロルゼンは西暦1131年(日本の平安時代末期))、アウグスティヌス派修道院がAroldessenアロールデッセンの名前で設立された。アウグスチノ女子修道会アーロルデッセン修道院。

 

 この修道院は1526年に世俗化され(宗教改革)、30年戦争後の1655年にヴァルデックWaldeck伯爵(後に大公)の住居となった。彼がこれを大邸宅に改築した。この邸宅は1710年に解体され、Friedrich Anton Ulrich, Prince of Waldeck and Pyrmont (1676–1728).によって新しいバロック建築が建てられた。(引用

 

画像 バード・アーロルゼン宮殿

 

 

 この街で目につくものは、そのほかにシュロス・シュトラッセ(Schloss Str.)の末端キルヒ・プラッツ(Kirch Platz)にある教会と、宮殿の対面の森のなかにある新城館くらいのものである。

 

画像:アーロルゼンの街並み。シュロス・シュトラッセ側から見る福音派教会。

 

 元々当地は神聖ローマ帝国領地であったのだから、教会はカトリックであったはずなのだが、現在は福音派教会になっている。30年戦争でこの土地が荒れ果てたという報告は残っていない。30年戦争で荒廃しなかった例外的な街だったらしい。ちなみにお隣のヴァールブルクでは人口が「1618年以前の約 16,000人から1648年以後には約 2,000人にまで減少した」。

 

画像新城館

 

 

 この新城館はそのころ(1976年)バート・アーロルゼン・ホテルとなっていて、内部には部外者も利用できる立派なプールとサウナがあった。

 

 私のような学生が入るには挌違いなのだが、私は歳もくっていたから、料金を払い、自由に使わせてもらった。

 

 非常に上品なサウナとプールであった。数年後にこのホテルは経営者が交代しドイツでも断突に高級なホテルに変身した。

 

 

 また、教会の近くには結構おいしいレストランがいくつかあって、私たちはゲーテ・インスティテュートから支給された切符で食事することができた。一般の学生はこれらのレストランでの食事を利用して一日一食の生活をしていたのだ。もちろんパン屋はあったから、お腹が空けば朝夕食に軽食もとることができた。

 

 

 学校の授業は朝3時間ばかりで、そのあとは食事をして、午後は放課となった。この街はなんにもない街で見物するものがなにもなかった。だが私は自動車をもっていたから、カッセルの街などへドライブして楽しく過ごした。

  

 

 カッセルの街にはヴィルヘルムスヘーエ城があって、アルテ・マイスター絵画館で楽しく美術鑑賞することができた。アーロルゼン近辺では唯一の美術館だった。

 

画像山腹に見えるのがヴィルヘルムス城。18世紀にヘッセンの方伯ヴィルヘルム9世が建造した。ドイツの第三代皇帝ヴィルヘルムⅡ世Wilhelm II は、ここを夏宮殿として使用した。

 

 

ヴィルヘルムス城の中にある絵画館Gemäldegalerie Alte Meisterにて展示されている作品の中から抜粋すると、

 

画像エリザベス・テュッヘルの肖像画、アルブレヒト・デューラー、

1499年。この肖像画は旧西独紙幣20マルクに使用されていた。

 

画像

 

 

 アーロルゼンのゲーテ・インスティテュートは、これからしばらくすると閉鎖になった。あまりにも貧相な街だった所為かもしれない。

 

 しかし、「あまりにも貧相な」と書くと読者をミスリードすることになるかもしれない。アーロルゼンは私の滞在中は誰も教えてくれなかったが、実は中味はコチコチの軍事都市だったのだ。

 

 

 

 

 

 

PS

19823月、帰国前にアーロルゼンを再訪したときの写真、数枚。

 

バード・アーロルゼン宮殿

 

 

ホテル・バード・アロールゼンとなっていた新宮殿。

 

 

ゲーテ・インスティテュート・バード・アーロルゼンのあった建物

 

バード・アーロルゼン駅付近。

左端の建物が駅。踏切を越して二筋目を右折した先に下宿の家があった。