青木繁

2022/12/8

 

 先日福岡県の紅葉を訪ねるという趣旨の、クラブツーリズムの一日旅行に乗ったのだが、昼食後、バスは私たちを石橋文化センターという所へ連れて行った。そこで私は文化センターのなかの久留米市美術館に行き、偶々意図せずに、青木繁・坂本繁二郎生後140年記念展覧会に出くわした。時間が極めて限られていたので、その時は流し目で見て歩いただけなのだが(福岡市周辺の紅葉2 - dousan-kawahara ページ! (jimdofree.com))、とても気になって128日に久留米を再訪してこの展覧会を再度じっくりと拝見させていただいた。その結果、私は次の7作品を選んだ。誰でも同じことをするだろう。

 

輪転

黄泉比良坂

天平時代

女の顔

男の顔

海の幸

わだつみのいろこの宮

 

 

 その際買った「没後100年 青木繁展」(2011325日-515日 石橋美術館)の中から、「自伝草稿」(すでに散逸)を植野健造氏が引用している部分をここに採録させていただくとして

 

 

 

P11

 

P12

 

  注:当時の中学校とは旧制中学校を指す。12歳で入学、17歳で卒業した。

 

 

 一読して、この人物がただものではないことがわかる。何をやっても「相応に出来る」ので、自分が既にできていることをやるのはつまらない。数学はだめだ。科学も駄目だ。哲学はわからないから、哲学に根ざす美術をやろう、と決めた。具体的にはドイツの哲学者Karl Robert Eduard von Hartmann エドゥアルト・フォン・ハルトマン - Wikipediaの名前を挙げる。

 

 我々はここで当時の日本の知識層のメンタリティーを思い起こす必要がある。

 

 明治24年から東京美術学校の講師として働くことになった森鴎外は、彼のドイツ滞在中ハルトマンの哲学にかぶれたことがあり、ハルトマンの美学と称する概念を当時の日本の知識層に広めた。(参考:岡倉天心も惚れた?軍人、医学者、文豪…森鴎外の意外な顔とその美学)。その当時の日本は日本全体が「ドイツかぶれ」だった。一時フランスから取り込んだ陸軍でさえも、ドイツ流に改変された。(参考:bunmeikaika (lcv.ne.jp))  (注釈:日本国の「ドイツかぶれ」の原因についてはカイゼル・システムmokuji5 (lcv.ne.jp)3講「カイゼル・システムへの移行」を読め)

 

 つまり、青木繁は、森鴎外の講義を聞き、ドイツ人のハルトマンの説く「哲学美術」を開拓しよう、と腹決めしたことがわかる。

 

 そこで直ちに描いたのが次の二枚だ。

 

 

輪転 Metempsychosis  (霊魂の再生、輪廻(りんね)

1903 油彩・カンヴァス 26.8 x37.8

石橋財団石橋美術館

 

注:Metempsychosis (メタムーシス と発音)霊魂の再生、輪廻(りんね)

 

 

 この絵が彼の心理的原風景の第一回目の作品である。一旦「死」の領域に立ち入ると、万物が流転する。価値観が失われて動き回る。自分でもこれを止めることが出来ない。物事の上下も左右も奥行きも掴み切れない。この間、自分は何をすることもできず、じっと傍観する以外に手はない。まことに忠実に内観を描写しきっている。なにを描いたのか。「死」と「生」の出入りの葛藤の様子を描いたものだ。価値観が失われ、茫然自失のなかで、自分の行先が定まらない焦燥感がにじみ出ている。

 

黄泉比良坂

1903 色鉛筆、パステル、水彩・紙 48.5x33.5

東京藝術大学

 

 

 鑑賞者はまた、この絵に釘付けになるだろう。共に画家が21歳のときの作品だ。この二枚が青木繁の最高傑作である。

 

この絵「黄泉比良坂」は、死の世界と生の世界との境界をリアルに描いている。なぜなら、このときの青木繁はBの世界から今、蘇ってきたところだったからだ。だから、この絵にはBのスピリットが目いっぱいに詰まっている。Bから逃げ出そうと努力する人間の精一杯の真剣さが画面に滲み出ている。

 

 

 Wikipedia黄泉比良坂 - Wikipediaは黄泉比良坂について次のように説明する。

 

黄泉比良坂(よもつひらさか)とは日本神話において、生者の住む現世と死者の住む他界黄泉)との境目にあるとされる、または境界場所。

 

さらにまた、

 

生者と死者の住む領域に境界場所があるとする神話は、三途の川などとも共通する思想であり、世界各地に見当たる。日本神話での黄泉比良坂は古墳の石造りや、を納めた石室に通じる道からの印象とも考えられている。

古事記』では上巻に2度登場し、出雲国の伊賦夜坂(いふやさか)がその地であるとする伝承がある[1]。「ひら」は「崖」を意味するとされる[2]

 

祓いの観念と関連があるものともされる。

 

画像:https://youtu.be/lDFdEiIENXA 石橋文化センターのバラ ノスタルジー

 

 古事記に記されたあらすじについては、Wikipediaの説明は:

 

男神・イザナギと一緒に国造りをしていた女神・イザナミカグツチを産んだことで亡くなった。悲しんだイザナギは彼女に会いに黄泉の国に向かう。イザナミに再会したイザナギが一緒に帰ってほしいと願うと、彼女は「黄泉の国の神々に相談してみるが、決して自分の姿を見ないでほしい」と言って去る。なかなか戻ってこないイザナミに痺れを切らしたイザナギは、の歯に火をつけて暗闇を照らし、彼女の醜く腐った姿を見てしまう。怒ったイザナミは、鬼女の黄泉醜女(よもつしこめ。醜女は怪力のある女の意[2])を使って、逃げるイザナギを追いかけるが、黄泉醜女たちは彼が投げた葡萄を食べるのに気を取られ、役に立たなかった。イザナミは代わりに雷神と鬼の軍団・黄泉軍を送りこむが、イザナギは黄泉比良坂まで逃げのび、そこにあった霊力のあるの実(意富加牟豆美命[おおかむづみのみこと])を投げつけて追手を退ける。最後にイザナミ自身が追いかけてきたが、イザナギは千引の岩(動かすのに千人力を必要とするような巨石)を黄泉比良坂に置いて道を塞ぐ。閉ざされたイザナミは怒って「愛しい人よ、こんなひどいことをするなら私は1日に1000の人間を殺すでしょう」と叫ぶ。これに対しイザナギは「愛しい人よ、それなら私は産屋を建てて1日に1500の子を産ませよう」と返して黄泉比良坂を後にし、2人は離縁した。

 

 

 青木はBという「死」の世界から逃げてきたばかり。だから、地獄の様子については百も承知だ。この経験がない者にはこの絵は描けない。つまり、黄泉比良坂とは「生」の世界と「死」の世界の境界線を意味し、青木の住んでいた時代には「霊界」と表現されていた領域である。霊界は暗く、物事の輪郭がはっきりしない。足を掴んで引き摺り下ろされる感覚がある、と青木は報告する。

 

 世の中に霊界の模様をしかと表現した人物は青木のほかにはいない。だから、この絵の鑑賞者はこの絵に引き込まれる。

 

 

 私の感想だが、上の二枚、すなわち、輪転と黄泉比良坂の二枚が青木繁の芸術の骨格なのだ。

 

 私は先日山形県の湯殿山を訪ねた(月山・湯殿山 2 - dousan-kawahara ページ! (jimdofree.com))。湯殿山は霊界(生界と死界の境目)であるとされている。だが、訪ねるまでもなかった。青木繁がその有様を忠実に表現してくれていたのである。

 

 

 私は役行者と西行の中で、役行者と西行とルターがB onlyの人間であると断定しました。齢の頃からいえば、役行者は20歳、西行は23歳、そしてルターは21歳。霊界に落ち込んだ年齢もきわめてよく似ています。(B onlyの定義については体験の履歴による (lcv.ne.jp)を参照せよ)彼らは若いのです。若くて秀才で内観の強い人間が霊界に落ち込む時期なのです。

 

画像:蔵王権現の印相 霊界で見る光景

 

 私は体験の履歴による (lcv.ne.jp)のなかのB onlyの説明のなかで、次のように書きました。

 

(c) B only タイプ

 

   神秘体験Bのみの経験を持ち合わせているタイプ。

   日本人には該当者がいないから、日本人にはこのタイプの人間

    に対する理解が決定的に欠けている。

   西洋ではルターが典型的であるが、カルヴァンも同様の経験を

    有する。

   現れる神は、「死神」だけであり、逃げ道は絶対にない、と主

    張する。したがって、人間は永遠に奴隷状態となる。神の前です

  べてを捨てて祈ることしか残されていない、と信じる。

 

 これは間違っていました。「日本人には該当者がいない」ではなくて、「日本人には役行者、西行、青木繁がいる」と書くべきでした。

 

 青木繁は黄泉比良坂の画布の上にBをはっきりと描いたのです。日本人にして初めて。でも、現在の日本人が米国人のウイリアム・ジェイムズ(『宗教的経験の諸相』 (lcv.ne.jp)を読め)を理解できないように、日本人はいまだに青木繁を理解できていないのです。黄泉比良坂を見ても、青木繁が何を描いたのかが、さっぱりわからないのです。

 

 なぜこうなったのか、理由は簡単です。森林太郎が悪いのです。彼がドイツ哲学の本質を解明することなく、ハルトマンを持ち出したから、こうなったのです。ハルトマンはドイツの哲学者です。ドイツ哲学というのは、神秘体験Aのみを論ずる学問ですから、Bを論ずる気持ちの余裕はありません。神秘体験Bを認識した青木繁がハルトマン(エドゥアルト・フォン・ハルトマン - Wikipedia)を読めば読むほど、自分をドイツ哲学の範疇外であるとして自分を疎外感に追い込んでいったのです。

 

 後で引用する青木繁の遺書のなかで、彼はこう言う。

 

小生が苦しみ拔きたる二十數年の生涯も技能も

光輝なく水の泡と消え候も、

是不幸なる小生が宿世の爲劫にてや候べき

 

 この挫折感は真の挫折感ではありません。森林太郎が日本美術学校で講演したハルトマンの哲学がそう断定しただけのことで、ウイリアム・ジェイムズも、竜樹も、釈迦も、Bを哲学の基礎として認識しているのです。だから、青木繁の感じた挫折感は不完全なドイツ哲学が原因なのです。

 

 

天平時代

1904  油彩・カンヴァス 45.3x75.4

石橋財団ブリヂストン美術館

 

 ハルトマンの哲学からすれば、この光景が青木繁の到達すべき光景だったはずだ。だが、青木繁はこのような天国には到達せず、地獄のような霊界に落ち込んでしまった。

 

 

 ハルトマンの哲学を実現させようと努力し、セックスの享楽を極限まで追求すると、そのあとにはふたたび、「死」の世界が青木を追いかける。

 

女の顔

1904 油彩・カンヴァス 45.5x33.4

青木繁君遺作展覧会(東京・竹の台陳列館   1912

京都国立近代美術館

独立行政法人国立美術館・所蔵作品検索 (artmuseums.go.jp)

 

 この絵はセックスを享受したあとの疲れ切った福田タネの様子を描く。ふたたび「死」の世界が近くなる。

 

 

 俺は「死」に近づくことはないぞ、と虚言を吐く青木繁。

 

海の幸

A Gift of the Sea

1904 油彩・カンヴァス 702x182.0

石橋財団石橋美術館Ishibashi Museum of Art, Ishibashi Foundation

 

 青木繁の性交後の傲慢な言葉とは裏腹に、「死」はふたたび姿を現す。今度は曖昧さをなくして、死人が行列する。よく観察してください。中央の白い肉体が青木繁で、マグロを間に挟んで次に続く白顔の女が福田タネです。この行列は生き物の行列ではありません。これは死人の行列です。私は死人のなかにいる、と青木繁は主張しているのです。この絵の不気味さはこの絵に正面から向き合って、間近に鑑賞しないと読み取れません。

 

 

 ぜひ実物を鑑賞されることをお勧めします。

 

わだつみのいろこの宮

1907 油彩・カンヴァス 1180.0x68.3

石橋財団石橋美術館

コレクションハイライト: | アーティゾン美術館 (artizon.museum)

 

 そこでどこに落ち着くのかね、と皆さまはお聞きになるでしょうが、それがこの絵です。

 

 実物は色調がもっと暗いです。

 

 

 

 青木繁は、「これが蘇りの結果だ」と主張しますが、そうは行きません。イギリスのラファエル前派の影響で構図も美しさも完璧なのですが、鑑賞者は「死」の雰囲気を求めてきたのです。この絵はその期待に応えてはいません。だから、三等賞だったのです。

 

大穴牟知命(おなむちのみこと)

1905 油彩・カンヴァス 75.5 x 127.0

石橋財団石橋美術館

 

『古事記』の一場面です。大穴牟知命は大国主命の別名。大穴牟知は兄たちに謀られて焼け死に、それを悲しんだ母の願いを聞き入れた神産巣日神が蚶貝比売と蛤貝比売を遣わします。蚶貝比売が貝殻を削った粉に、蛤貝比売が乳汁を混ぜ合わせ、それを大穴牟知の体に塗りつけると蘇生しました。彼はその後数々の苦難を乗り越えて地上の支配者となります。手前に横たわる裸身の大穴牟知、左に蚶貝比売、右が乳房をつかむ蛤貝比売です。蛤貝比売がこちらを見つめる眼差しが、神話の世界と私たちをつなぐ強い絆になっています。

引用:コレクションハイライト: | アーティゾン美術館 (artizon.museum)

 

 そして最後が大穴牟知命です。大穴牟知命すなわち大国主命が蛤貝比売(キサガイヒメ・ウムギヒメ - Wikipediaを参照せよ)の母乳で蘇生するという物語が主題ですが、ここでやっと「生」と「死」の狭間から、すなわち黄泉の国からの脱出が成功するのです。

 

 

 

 これだけですか?

 はい、これだけです。

 

 

 

追記:漁夫晩帰という作品がある。

 

漁夫晩帰

1908 油彩・カンヴァス 118.5 x 182.8

財団法人ウッドワン美術館

 

青木繁26歳のときの作品だが、彼の息子幸彦が左下に描かれている点を除けば、この絵には取柄がない。人の心に訴える精気が欠けている。Bは青木繁にその正体を明かすことなく、彼を去ったのである。

 

 

 

 青木繁の遺書は次である。

 

鶴代、たよ子宛書簡(遺書)(部分)

19101122日付

石橋財団石橋美術館

 

読み下し文:

 

・・・・・不治の相場ときまり候もの、稍氣分よしとて宛になるものにあらず。過日來の如くんば到底筆取りて一字も書く事ならず、此寒さにむかひて何時又惡るくなるかも知れず、小生も今度はとても生きて此病院の門を出る事とは期し居らず、深かく覺悟致居候に付、今の中に皆樣へ是迄不孝不悌の罪を謝し倂せて小生死後のなきがらの始末ニ付一言御願申上置候。

 

 小生も是迄如何に志望の爲めとは言ひ乍ら皆〻へ心配をかけ苦勞をかけて未だ志成らず業現はれずして茲に定命盡くる事、如何ばかりか口惜しく殘念には候なれど、諦めれば是も前世よりの因緣にても有之べく、小生が苦しみ拔きたる二十數年の生涯も技能も光輝なく水の泡と消え候も、是不幸なる小生が宿世の爲劫にてや候べき。されば是等の事に就て最早言ふべき事も候はず唯殘るは死骸にて、是は御身達にて引取くれずば致方なく、小生は死に逝く身故跡の事は知らず候故よろしく賴み上候。火葬料位は必らず枕の下に入れて置候ニ付、夫れにて當地にて燒き殘りたる骨灰は序の節高・・・・・

 

(引用文:青木繁書簡 明治43年11月22日付 青木鶴代、たよ子宛 - Wikisource

 

 

 

 青木繁は死の世界、Bの世界の表象化を実現した。日本の美術界で最初にして最後の冒険であり、それゆえ、彼の美術展は多くの鑑賞者を引き付ける。

 

自画像

1903 油彩・カンヴァス 80.5 x 60.5

石橋財団石橋美術館

 

 これが「死」の世界の青木繁です。ルターやカルヴァンが実現しえなかった「死」の具象化を青木繁は見事に達成しています。

 

 この人を偉人と言わずして、誰を偉人と呼べるのでしょうか?