2021年夏 所感(1)

2021/07/30

   大河原せぎ

 

    撮影:2021/06/09 城の平第一期分譲地、標高1500m地点の写真。

 

私の家から歩いて15分。散歩道の途中(東洋観光の区画番号でいうと、A14B8の間)。大河原せぎ(堰)の取水口から100mほど下流のせぎの有様。長いあいだ放置されていたが、昨年から護岸が修理されて、見栄えがよくなった。堰に並行する点検保守道路も拡幅されて立派になった。

 

 

 上流側の写真は次。左側にちらと見える建物は立川ブラインドのシルキー山荘。

 

撮影:2021/06/09

 

用水の左側の保守点検用側道を遡ると、取水口に到達する。

 

画像:滝之湯堰と大河原堰/諏訪地域振興局 (nagano.lg.jp)

 

芝湛(しばたたえ):木・石などで築いた小堤防で河川を堰き止めて取水していますが、下流

への水量を確保するため、漏水させ全量取水できない構造となっています。

 

大河原せぎというのは滝の湯川から標高1510m地点で取水され、玉川穴山地区での灌漑利用地点までの用水路約20kmを指し、2016年に「世界かんがい施設遺産」の一つとして登録されたものです。下の地図を参照してください。

 

画像:05.pdf (nagano.lg.jp)部分 

 

滝之湯堰・大河原堰 位置図(滝の湯せぎと大河原せぎ.pdf)。赤丸印が写真撮影地点。

 

世界かんがい施設遺産として登録され、県内では初の登録となりました。

(引用:滝之湯堰・大河原堰が「世界かんがい施設遺産」に登録されました - 茅野市ホームページ (chino.lg.jp)

 

世界かんがい施設遺産と呼べば、世界文化遺産のように世界を股にかけたものものしい遺産構造を想像するが、この遺産構造はインドに中核団体を有するちっぽけな文化施設で、内容を調べると、日本で中世に建設された小規模の灌漑施設が大部分で、拍子抜けします。

 

 さて、滝之湯堰(せぎ)と大河原堰(せぎ)は、今から200年以上前に、当地区の名主坂本養川(さかもとようせん)による高島藩(たかしまはん、諏訪藩 - Wikipedia)への請願によって開削された農業用水路であり、現在もかんがい用として利用されています。坂本養川の調査をもとに計画された「繰越堰()(くりこしせぎ)」という水利体系は、東西に流れる複数の河川を用水路で結び、比較的水量が多い北部の河川の余水を順々に南部の水不足地帯へ送ることにより、その沿線の農地をかんがいするもので、当時では画期的な構想でした。

 

 

 両堰は、ともに蓼科山(たてしなやま)から流れ出る滝ノ湯川を取水源としており、1785年に滝之湯堰10.4kmが、1792年に大河原堰12.5kmが完成しました。大河原せぎの建設による穴山地区での米の収穫高の向上は次図の通りで、38%増の大成功を収めました。

 

画像:05.pdf (nagano.lg.jp)

 

(引用:同上)

 

この成功は徳川幕府によって譜代大名たる諏訪忠粛の功績とされたのですが、実質的な貢献者は現在の茅野市宮川の名主であった坂本養川(坂本市之丞 - Wikipedia)であったようです。

 

 

いままで私は知りませんでしたが、城の平第一期地区を流れるこの小さな流れが、234年前の天明の大飢饉の際(諏訪忠粛の時代)に、飢饉という苦境を乗り越えるための名主の必死の知恵の結晶であり、また、天明3年(1783年)の浅間山の噴火https://www.ktr.mlit.go.jp/tonesui/tonesui00023.htmlという事態がことの発端であったことも心得ておかねばなりません。

 

 

 いや、大昔の大災害までも目に見えるように思い出させてくれて、有難いです。でも、昔の人の知恵がいまだにこの小さな流れとして残っているのは、理屈では分かるけれども実感が伴いませんから、なんとなく不思議です。

 

 それよりもなによりも、この地点()から標高差50mばかり下手に住んでいる私にとっては、大河原せぎが完成した1792年から今まで229年間、この地域で土石流が発生していなかった証拠を入手したような気分になるので、先日の熱海土石流事件のあとでは、安堵の気持ちがとても強いです。くわばらくわばら。

 

 では皆さま、御機嫌よう。