中書島-黄桜酒造と月桂冠3

2023/01/27

 

月桂冠本社

 

 

左から、月桂冠大倉記念館、内蔵、大倉本家、月桂冠旧本社

 

 

月桂冠大倉記念館

 

 大倉本家をのぞいては全て見せていただいたが、実に見事な建物と展示品とに驚かされた。

 

 

勘定場 左の張出縁に飾られているのは使われている酒米の種類。

 

  懐かしい雰囲気ですね。私の親父も(金箔業でしたが)同じような勘定場を持っていました。ここに足りないものがあるとすれば、大きな金庫です。

 

 

中庭

 

 

 寛永14年創業時から湧き続ける酒水。大切な原料ですから井戸の周りに熨斗を垂らし、水引を結んであります。

 

 

 

記念館と内蔵の間にある空き地です。酒樽が並べてあります。家と蔵の佇まいがなんとも美しい。こんなに美しい家並は今の日本にはめったに残ってはいません。「目の保養」になるし、審美眼が鍛えられます。こんなに素晴らしい観光地は他にありません。

 

 

これは大倉本家の玄関です。大倉と書いた名札のほかに、長刀鉾の粽がかざられています。「蘇民将来之子孫也」と読めますね。(注:蘇民将来之子孫也については祇園祭ちまき販売(前祭)2023(販売日・・・) (kyototravel.info)をお読みください。)大倉家は京都の町の故事由来をひきついでおられるのですね。安心しました。

 

 

 大倉記念館には他にも興味深い展示物が沢山飾られてあります。

 

 

 なんと創業1637年当時の通い徳利が保存されていました。かさぎや(笠置屋)ふしみ(伏見)という銘入りです。

 

 

 これも面白い。

 

 

 秀吉が築いた「伏見城」です。画面には1596年と表示されていますが、1594年に築城された一代目の伏見城とは違って、この図は「慶長の大地震」で倒壊し、1597(慶長2)年に近隣の「木幡山(こはたやま)」に再建された二代目の伏見城です。詳しくは2:豊臣秀吉が築いた「伏見城」と伏見の街 桂・伏見 を参照なさってください。

 

 

大川便覧

土佐堀Facebookから伏見Facebookまでを概観することができる。

 

江戸期の天満〜伏見を結ぶ淀川三十石船の航路図「大川便覧」

 

(ブログから抜粋)

江戸期、大阪の天満と京都の伏見は、淀川三十石船で結ばれていました。

水運として、伏見の酒をはじめ、多くの物資が淀川(今の大川ね)を往来していて、大阪・天満発展の歴史は、これ抜きには語れません。

 

もちろん、伏見で終わるんじゃなくて、伏見で荷揚げされた荷物は高瀬川を走る高瀬舟に乗せて、京の町まで運ばれます。高瀬川は、京都の二条から鴨川の水を引いてつくった運河で、1614年(慶長14年)、角倉以了が拓いてます。

 

三十石船は、ご想像の通り、米を三十石(米俵にして75俵)積める容量(56×83=17m×2.5m)があったことから名付けられているわけですが、三十石船は物資を乗せたのではなく、人を乗せた、旅客専用の船です。乗船定員28人~30人、船頭さん4人の船。

 

別名を過書船と言います。過書というのは、関所を通過するときの交通税の免除状のことで、淀川三十石船は、江戸幕府から淀川水系の特権的な営業権を与えられていたので、過書船と呼ばれたわけです。

 

当時、大阪には八軒家、淀屋橋、東横堀、道頓堀の4つの船着場があり、だいたい、早朝に出て、夕方には伏見に到着していたようです。これが、上り船。もちろん、水流に逆らってるわけなので、棹をさしたり綱を引いたりして川を上ったわけです。これが約45kmなので、大変な労働ですわ。

 

一方、下りは、夜に伏見を出て、早朝には大阪に着くというパターン。

 

こちらは川の流れに乗るので、ラクです。

 

船賃は、享保のころで、上り172文、下り72文。幕末には、どちらも数倍に値上がりしてます。幕末は、インフレの時代でもあったからね。

 

この、淀川三十石船は、最盛期には、162隻が就航し、一昼夜で上り下り合計320便、1日約9,000人が往来したというので、大動脈ですよ。衝突とかなかったのかな。

 

 

・・・・・・・

 

 

 こうやって大倉記念館のなかで展示物を調べていると、面白くて時間を忘れます。

 

 私はこの後、大手筋商店街の繁華街を拝見し、近鉄伏見から京都駅に戻り、京都駅で築地寿司清で簡単な食事をしてから、ダイワロイネットホテルという新築ピカピカのホテルに投宿しました。

 

 

 では皆さま、御機嫌よう。