坐禅4

                                                                         2017/08/29

          画像:2011/10/28 撮影。フリーア美術館

        虎の形の置物
        中国、陜西省宝鶏市
        西周王朝中期、西暦前約900年
        青銅器

 

館内説明:


 このペアの青銅器の置物の製造目的がなにかは分からないけれど、この形の着想は明らかである。本物の虎のように、獰猛な頭は油断なく警戒している。威嚇的な目、直立した耳はあたかも競争相手の動物が動こうとしているのに対応している。低く構えた身体は強力で頑健な脚で支えられ、長くて渦巻く尻尾で終わる。顔の斑点はひげの毛穴を顕わしている。中央部、脚の下部と尻尾の縞模様はこれら獰猛な動物に共通する印に似ている。反り返る牙や肩と臀部上の複雑な装飾を加えたにもかかわらず、この意匠図案家は明らかに真の虎の様相に通暁している。これが意味するところは、三千年前北支那はこのような野生動物を生かすほどに暖かだった、ということだ。


 フリーア美術館がこの二匹の虎を1935年に入手したとき、添付されていた但書にはこう書かれていた。この青銅器の虎は1923年、陜西省宝鶏市で発掘された。この土地は周王朝の帝王たちが1世紀以上にわたって統治していたところである。

 私が坐禅に打ち込み、心身の鍛錬を行った結果、私の守るべき信条は先に述べた白隠禅師坐禅和讃に一本化していた。そこで滑石峠での喜ばしい経験も「自性を解した」結果だと理解して、だれにも話さず、心に秘めておくことにした。


 当面の大学入学試験を終えて一服したあとも、私の信条を変更する機会はあらわれなかった。すなわち、白隠禅師坐禅和讃に服従し続けていたのである。


 ところが学期が始まってしばらくして、私の身体から突然活力が抜けていった。


 その当時の京都大学での講義は、第一年度は吉田ではなく宇治分校で行われていた。私は宇治の街の縣神社大鳥居を入ってすぐ右側にあった米屋の奥の離れに住んで、朝は宇治橋を渡り、京阪宇治線に乗って黄檗で下車していた。

                                                               画像:GoogleMap, 2017

 五月の末頃、わたしの身体から突然活力が消え去り、私は学業にまったく関心がなくなった。授業にでても上の空の状態になった。学校に興味がなくなって、近所の観光に熱を入れたということではなく、まったくなにをする気力もなくなった。


 4月に入部したヨット部で5月の琵琶湖で三井風(三井寺の方角から吹く比叡山山頂から吹きおろしの強い風)によりチン(ヨットが転覆すること)して、大量の水を飲み、身体から力が失われ、水中で沈んでいるところを助けられたことがあった。私はこの事件をきっかけにヨット部を退部したのだが、そのとき感じた「死」はピンク色の靄がやわらかに私を包み込むもので、私にとっては暖かい抱擁力のあるものだった。


 そういうことでヨット部もやめ、かといって、近所に沢山ある観光名所(たとえば宇治の平等院)を訪ねるわけでもなく、下宿に閉じこもった学生になってしまった。


 不思議なことに、どういうわけか私の心にするりと滑り込んだ「死」が、それからの私の唯一の友達になった。学校へも行かず、近所の食堂に行って食事をする以外は米屋の離れの部屋に閉じこもって、「死」とお話ししたのだ。正直言って死にたくってたまらなかった。

                     画像:2013/01/30 撮影。バンテアイ クディ、カンボジャ。朽ちかけた遺跡。

 どうすれば死ねるのだろうか、死の世界はどうなっているのか?生から死への転換点はどういう構造になっているのだろうか? 死は罪悪なのか? なぜに死は存在するのか? 死は誘惑であり、蠱惑的に私に微笑みかけてくれていた。


 だから私は薬局へ行って、強力な睡眠薬を購入した。ロシュ(Roche)製の「バラミン(Valamin)」という白い錠剤だった。これを一瓶十錠飲めば確実に死ねるという評判の薬で、実際に3錠飲んだら、三日三晩眠りこけた。それでもやはり「死」との直面は怖かった。生きたい気持ちと死にたい気持ちの挟み撃ちになって、毎朝目を覚ますと布団のなかで呟いた。「ああ、まだ生きている。この状態がいつまで続けば決着がつくのだろう」。


 こういう日が毎日続いた。今思い返してみると、私のその当時の記憶はすっぽりと空白になっており、毎日の詳細はさっぱりと記憶から消去されている。7月8月は夏休みで金沢に帰っていたはずだけれども、私の記憶には残っていない。半分瘋癲青年のような有様であったのだろう。

 

 こういう思い出話を恥ずかし気もなく書けるのは、後に読んだウイリアム・ジェイムズの伝記のなかに彼の青年時代の精神的抑鬱状態に関する次の記述があって、私の経験はこれに勝らず劣らずであったことが確認できたからだ。(参照

1866 - ジェイムズの家族がケンブリッジに移る(20 Quincy Street)


 彼は医学校に通い始めたが、種々の疾患の組み合わせに悩まされた。背中の痛み、視度不良、消化不良、自殺志向など、それらのいくつかあるいは大部分は、かれの将来にたいする非決断により悪化したものであった。救済を求めて、彼はフランスとドイツへ行き、二年間のあいだ、入浴したり、Helmholtzとかその他の有名な生理学者の下で勉強したりして、結局新しい生理学に完全に精通することとなった。

 彼と私との間に違いがもしあったとすれば、アメリカの金持ちはヨーロッパに逃避旅行をする金銭的余裕があったということで、私には、宇治市と故郷の金沢市しかなかったことくらいである。

画像:2009/03/15撮影。MoMA(ニューヨーク近代美術館)


パブロ・ピカソ スペイン人、1881-1973
納骨堂 1944-45
カンバス上に油絵具と木炭

館内解説:


 納骨堂は、1937年のゲルニカ(現在レイナ・ソフィア美術館(マドリード)所在)以降に描かれた、ピカソの最も明白な政治的絵画であります。ピラミッド状の構成と抽象的形態においてゲルニカと呼応しているが、この作品は新聞の戦争写真に影響を受けたもので、作品のトーンは薄暗い白黒パレットに反映されている。中心の乱雑な人物達――殺された家族が食卓の下でひっくり返って無様に広がる――はナチの強制収容所が解放されたときに発見された積み重なった死体を暗示するものだろう。スペイン市民戦争の際の記録であるゲルニカが、第二次大戦の激烈な開始のきっかけとみなされているように、納骨堂はその恐ろしい終結を示している。

 

筆者注釈:


 ユダヤ人のナチス強制収容所からの解放は大々的に写真が公開された。かといって抑留者が強制収容所での経験を生々しく語ったわけではない。大部分の人たちは口を閉ざしてなにもしゃべらなかった。毎日毎日「死」と向き合っていると、人は喋れなくなってしまう。死と向き合う恐怖の連続は、記憶の空白を作り出してしまうのだ。

画像:2012/05/16撮影。大英博物館


一人の羅漢(Arhat)
釉薬をかけた炻器(せつき)
中国、河北省易縣
遼朝 (AD 907-1125)

館内説明文翻訳:


 羅漢は、涅槃の境地に達した仏教徒の聖人あるいは賢人である。涅槃とは、この世界において苦しみと再生の行き着くところ、である。この彫刻は、北京の南、易縣西方にある洞窟群出自の一組の八羅漢のうちの一体である。一個人として独立しているが、この人物は実際のポートレイトではなくて、すべての人類が熱望するであろう精神的な理想を表している。この易縣の人形造形は驚くほど厳粛な威厳と力があり、羅漢を明瞭な人間の顔で表現するという唐時代に始まった伝統を伝えている。

 私は理性を失った状態で苦しみ続けた。自分にたいする「死」の意味合いが確定できなかった。かといって実行に移す度胸にも欠けた。卑怯な侏儒であった。天は暗く雲が低く垂れこめていた。それは私の心を押しつぶさんとばかり圧力をかけてきた。私には逃げる場所、隠れる場所がまったく見つからなかった。私には父親との契約があり、それは大学での勉学を成就することであった。だが、中間試験の9月末が近づいているというのに、私には勉強する気力がまったく失せていた。試験を受けても白紙答案を出すのが目に見えていた。このまま進めば確実に破滅だが、それはこれまでの私の義務達成姿勢とは180度逆の境地であった。もうすでにこの地点で私は奈落の底に落ちているのだ。奈落に落ちつつあるのだ。これもわたしには今まで経験のない現実破綻感覚であった。逃げられない、みじめな感覚が私を包んでいた。


 私は試験日スケジュールを見るために宇治分校へいったが、このときの私の感覚も行動も私の記憶にはまったくない。夢遊病者のように歩き回っていたのだろう。私は下宿に帰るために、電車には乗らず、歩いて帰ることにした。田んぼには曼殊沙華が赤く咲いていた。私はなんのために曼殊沙華が咲いているのだろう、としげしげと花を眺めた。そのときだった。突然身体が冷えてきた。苦しみで押しつぶされたかのように曼殊沙華の花の色が変わってきた。あれよあれよ、という間に曼殊沙華は赤色ではなくなり、あたり一帯が補色の色合いに転じた。私はその意味がわからないままに、その変化をじっと眺めた。苦痛と絶望が私を囲繞したが、補色の曼殊沙華は動かなかった。

                                                                               ↓

 

                                                                               ↓

 

 しばらくしてこの現象は消え去ったが、私の心には強い印象が残った。この陰画が出現したときに、これ以上は進めない、ここが終点という印象が私に告示された。

 

 私は早速に下宿に帰り、荷物をまとめて金沢に帰った。家の者には「今年は学校の試験は受けない」と宣言した。兄の一人は「試験答案などというものは適当に書いておけば、通るものだよ」といったのだが、私の潔癖性はそれを拒否した。


 私はそれから金沢の自宅でぶらぶらしていた。ぶらぶらしながら、ここ2年間の間に起きたことを振り返り、これらの事象がすべて辻褄が合うような回答を求めた。


いはんや自ら回向して  直に自性を証すれば
自性即ち無性にて    すでに戯論(げろん)を離れたり
因果一如の門ひらけ   無二無三の道直し
無相の相を相として    行くも帰るも余所ならず

 

 上の「白隠禅師坐禅和讃」の一節との整合性を考え続けたのである。答えは簡単には出てこなかった。

 

 

 それから5か月考え続けて、翌年、昭和35年2月、家の居間を徘徊していたときに、突然答えが出た。「アハハハ」と突然私が笑い出したので、皆が恐怖の表情を見せた。だが、私はこの瞬間、正解を手にしていた。この時の私の年齢は20歳であって、正受老人が飯山城で見性したという15歳という若さには及ばなかったが、すべてが満足のいく、辻褄の合う回答を入手していた。


 私の12歳のときからの坐禅人生はこの時点で終結した。

 私は解決すべき問題がなくなったので、その後、素晴らしいスピードで万巻の書を精読した。そして、ほどなくして、聖徳太子の『勝鬘経義疏』が説く「世俗諦」と「勝義諦」を理解した。私の昭和33年10月の滑石峠での経験が世俗諦であり、昭和34年9月の曼殊沙華が勝義諦であった。前者は生命であり、後者は死であった。世俗諦と勝義諦は評価(ヴェクトル)が正反対であるから、これら二つを自分のものとして同時に認めるときには、評価基準は消えるのである。すなわち「無」。あるいは「空」。( 『勝鬘経義疏』のコア「空智」を参照されよ)

画像:2015/05/28 撮影。デンマーク国立博物館


べス神の柱
紀元1世紀
砂岩
メロエ(Meroë)のアムン寺院出自

館内説明:


 柱の4面のうちベス神のついた柱の一面。彼の顎鬚は特別に丁寧にカールされている。そしてそれぞれの手でコブラを捉まえている。コブラは彼の腕の回りをめぐり、頭を彼自身の頭の横にもたげている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2007/09/15撮影。
ラホール博物館
Attack of Mara's Army
(部分)