2018/11/06
写真:雲の墓標碑
11月6日、いよいよ出水訪問の日だ。出水は73年前に私の兄清二が特攻隊隊長として飛び立って行った記憶すべき土地なのだ。その土地がどのような土地で、飛び立って行った時代の飛行場の様子はどうであったか、私は知る必要がある。ただ漠然と「清二さんは3月21日の朝、出水の飛行場を飛び立っていって、そして死んだ」との説明だけでは私は納得しない。納得できない。
そこで今回の出水訪問となった。ホテルで朝ご飯をたっぷりと食べ、8時前にチェックアウトして、8:06発の新幹線に乗り、二つ目の駅、出水で下車した。タクシーで慰霊碑公園へ行って、地下壕を見物した。ここは阿川弘之「雲の墓標」が慰霊碑に使われており、好ましい。しかし、付近には一般住宅が立ち並び、忘れ去られた遺跡という感じである。
画像:地下壕と地下指令室入り口
画像:地下壕入り口階段
画像:内部の地下指令室
画像:地下壕の上部。ゼロ戦のエンジンとプロペラーの残骸が左に展示してあり、中央階段の上部には、「雲の墓標」碑が建てられている。
出水航空隊基地の全体図は次。
基地内への進路は、左下の現在県道荘上鯖淵線に従って、基地東方より接近し、中央(南北)道路の青矢印に従って北進し、正門(現在は消失)を通って基地内に入ったものと推定される。地図上に衛兵塔と書かれているのが次の写真である。衛兵塔の一部は米軍の爆撃で破損している。
正門の右側(東側)にはその当時、運動場があったのだが、現在はその西半分は、運転免許練習場となっている。
次の四つ辻を東(右)に曲がると、左手に当時は相当大きな基地庁舎があったはずだが、今は一般民家がならんでいる。基地庁舎から一本の道路を挟んで士官舎があったが、現在は士官舎跡が生垣越しに見えるだけである。
いずれにしても、このあたりが基地の中心部であったと推定できる。隊員の活動はここあたりを中心にしていたと観察できる。
出水海軍航空隊というパンフレットを現地で入手した。
このパンフレットの説明によれば、
この説明によれば、清二兄は豊橋の予科練で飛行技術を学び、昭和19年11月に出水基地に配属され、実戦練習を重ねた、と推定される。
「出水海軍航空隊からは1945年(昭和20)3月19日が最初の出撃で(銀河4機)、以後は銀河隊・御楯隊などで計264名が殉職した。」と書いてあるから、終戦の日2 で観察した航空母艦フランクリンへの攻撃は出水からの出撃特攻隊の第一陣であったことがわかる。また、阿川弘之『雲の墓標』新潮文庫P212の記述「3月18日」は、「3月19日」の間違いであることもこれではっきりする。
450kgs爆弾を二本抱えて、帰還することを期待しないまま、帰還のための燃料を積載することなく出撃するという、まことに痛ましい特攻隊の使命は、第一航空司令官大西海軍中将の発案であったらしいが、これは明治時代以来の日本の典型的ドイツ式自爆思想である。いや、ドイツでもこのような自爆思想は実行されなかったから、ドイツを越える超ドイツ思想であると考えなければならない。今の時代の実例を挙げれば、イスラム教徒によるツイン・タワーへの自爆突入(2001.9.11)に匹敵するもので、いわゆる「カルト」思想である。なぜ日本にこのようなドイツ思想やカルト思想が取り込まれたかについては、拙著『カイゼルシステム』で詳しく述べた。
だから、原因は大西瀧治郎であると断定する以前に、伊藤博文に原因を求める方が理にかなっている、と私は信じている。私自身の独自思想というよりも、私はこの思考をアメリカ人の老学者に教えられた。(参考:「アメリカ旅行」)
画像:「海軍出水航空基地の歴史」と題する現地掲示板から拝借した航空写真。赤丸が衛兵塔の位置。
写真:「雲の墓標」の銘板。これから推察するに、3月19日航空母艦フランクリンに体当たりした「銀河」
の隊長は、金指勲氏であった可能性がある。もう少し調べる必要があるが。