耶馬渓と国東半島を巡る旅1

2018/11/23

 

 

 思い立って大分交通の観光バスの耶馬渓行きに乗った。予約は取らなかったのだが、別府駅前発9:10の席があった。バスは大分でほぼ10名、次に別府でほぼ10名、中津駅で十四、五人の観光客を乗せて、ほぼ満員の状態で中津駅を出発し、近くの福沢諭吉旧宅を訪ねる。今日は三連休の初日で客が多いのだそうだ。

 

 

Wikipediaから

 

福沢諭吉

 

福沢諭吉旧宅

 

 

 

 まず向かったのは、福沢諭吉旧宅である。中津駅からわずか1kmしか離れていない。

 

 

 

 たまたまこの日は、慶應義塾横浜初等部の一行が来館していて、黒い丸帽子で埋め尽くされていた。聞いたところ、6年生だという。卒業旅行かな。

 

 

 

 安政5年(1858年)、諭吉は築地鉄砲洲にあった奥平家の中屋敷に住み込み、そこで蘭学を教えた。この蘭学塾「一小家塾」が後の学校法人慶應義塾の基礎となったため、この年が慶應義塾創立の年とされている。ちなみに、この年の4月に日米修好通商条約が井伊直弼の独断で調印され、安政年3月の桜田門外の変へと発展した。明治元年は1868年であるから慶応義塾の創設は明治維新の10年前ということになり、日本の大学としては断トツで最古である。

 

画像:中津市福沢諭吉旧居記念館内の地図 「京橋築地絵図 文久元(1861)年」

 

 画像:福沢諭吉旧居記念館に展示されている西洋事情初版本、慶應2(1866)

 

慶応義塾の明治4年の成績表まで展示されているではありませんか。驚きです。

 

 内庭で、黒丸帽子、半ズボン、黒長靴下の若い慶応ボーイたちです。

 

 さあ、これで福沢諭吉旧宅は終わりです。私たちはバスに乗って青の洞門に向かいます。

 

 

青ノ洞門

 

 

 禅海和尚は、青の洞門を一人で掘った。現代のトンネルはシールドマシンで掘削するが、その掘削機械は一つのトンネルにつき、たった一台製作され、たった一人の技術者が設計する、という。(詳細)古今を問わずトンネル掘りは孤独な作業なのだねえ。

 

画像:帰り道に見た川向うから見た青の洞門