2020/07/09
前々ページ「安徳天皇1」の冒頭の画像の左上を拡大した画像が上です。平家軍の総大将であり、平清盛の4男である平知盛(屋形船の中で烏帽子を被っている)が女房たちに敗戦を告げています。
平知盛
寿永4年(1185年)3月24日、壇ノ浦の戦いで鎌倉軍と最後の戦闘に及ぶが、田口成良ら四国・九州在地武士の寝返りにあい、追い詰められた一門は入水による滅びの道を選ぶ。安徳天皇、二位尼らが入水し、平氏滅亡の様を見届けた知盛は、乳兄弟の平家長と手を取り合って海へ身を投げ自害した。享年34。(引用:)
写真:撮影2020/06/02
自害にあたり、知盛は碇を担いだとも、鎧を二枚着てそれを錘にし、「見るべき程の事をば見つ。今はただ自害せん」と言い残して入水したとも言われている。共に入水後遺体となるか、あるいは生きたまま浮かび上がって晒し物になるなどの辱めを受けるのを避ける心得である。
これに想を得た文楽及び歌舞伎『義経千本桜』の「渡海屋」および「大物浦」は別名「碇知盛(いかりとももり)」とも呼ばれ、知盛が崖の上から碇と共に仰向けに飛込み入水する場面がクライマックスとなっている。(引用:)
画像:歌川国芳による浮世絵。ヘイケガニに平氏の亡霊が乗り移ったという伝承を描いている。右端で薙刀を持った人物が平知盛。
<平知盛の怨霊> 壇ノ浦の戦いで、碇を縛り付けて入水して死んだ平知盛の怨霊。摂津国大物浦(だいもつのうら)に現れ、義経一行が乗る船を沈めようとするが、弁慶が経文を唱えると、やがて消えていった。
平家の総大将であった平知盛は平家の滅亡を見届けて、錨を担いで水死したのだが、後に摂津大物浦の廻船業渡海屋として現れるのが歌舞伎『義経千本桜』。
注1:摂津大物浦(だいもつのうら)
摂津国、淀川旧河口にあった船着き場。今の兵庫県尼崎市大物町。
歌舞伎『義経千本桜』二段目、(渡海屋・大物浦の段)は、また、『吾妻鏡』による史実に基づいています。
文治元年11月5日、多田行綱らが河尻で前途をさえぎって攻め寄せたので、義経の部下が多く離散し、ついで6日、義経らが大物湊から船に乗ったところ、突然暴風が吹き荒れ、船が転覆して行方知れずになってしまったと伝えています。(引用:)
文治元年(1185)十一月大六日乙酉。行家。義經於大物濱乘船之刻。疾風俄起而逆浪覆船之間。慮外止渡海之儀。伴類分散。相從豫州之輩纔四人。所謂伊豆右衛門尉。堀弥太郎。武藏房弁慶并妾女〔字靜〕一人也。今夜一宿于天王寺邊。自此所逐電云々。今日。可尋進件兩人之旨。被下 院宣於諸國云々。(引用:)
これを歌舞伎では次のように伝えます。
全文は次の通り。
歌舞伎『義経千本桜』(よしつねせんぼんざくら)二段目、(渡海屋・大物浦の段)
(渡海屋・大物浦の段)
摂津大物浦の廻船業渡海屋に、鎌倉より義経探索に出張ってきた相模五郎という侍が手下を率いて訪れる。相模は九州に向うと噂される義経一行を追うため、先約のある船に自分たちを乗せろという。主の銀平はちょうど留守にしており、銀平の女房おりうが応対して断ろうとするが、相模は権柄づくな態度で船を譲れと迫り、ついには先約の者と直接話をつけてやると奥へ踏み込もうとする。そこへ銀平が戻り、なおも無理をいう相模を腕ずくで追い払った。
先約の客とは、実は九州に落ちて行こうとする義経一行であった。義経は鎌倉より追われる己が身の上を嘆くが、銀平は義経に味方すると言い、今の相模が再び来てはいけないから、一刻も早く用意した船で出発するように勧める。義経たちはその言葉に従い、蓑笠を着て渡海屋から立っていった。
画像:パブリックドメイン美術館より 歌川国芳「大物浦平家の亡霊」
だが、銀平とは実は合戦で討死したといわれる平知盛だった。その娘のお安というのも実は入水したはずの安徳天皇、女房のおりうは実は安徳帝の乳母典侍の局(すけのつぼね)である。銀平こと知盛は安徳帝を掲げ平家の再興を狙っており、まずはその手始めに自分のところに来た義経に返報せんとしていたのである。さきほど来た鎌倉武士の相模五郎というのも実は知盛の家来で、義経一行を信用させるためにわざと仕組んだ芝居であった。知盛は義経たちの目をくらませようと白装束に白糸威しの鎧を着て姿を幽霊にやつし、さらにこれも幽霊にやつした手勢を率い、海上の嵐に乗じて義経を葬ろうと出かけていく。
画像:「義経千本桜 渡海屋・大物浦」。片岡仁左衛門(左)、中村時蔵(中央)=松竹提供
安徳帝と典侍の局は装束を改め、知盛からの知らせを待っていた。夜が更けて雨風も激しく吹き、陣太鼓が鳴り響く。そこへ相模五郎が駆けつけ、戦の様子について注進する。ところが義経たちは兼ねてから用意がしてあったのか、手勢を揃えて知盛たちに反撃し、味方は劣勢となって危うく見えると言って相模はふたたび戦へと戻っていった。この知らせに気遣わしく思う局は障子を開けて沖のほうを見ると、味方の船の灯りが次々と消えてゆく。さらに一味の入江丹蔵が手を負いながら現われ、味方はひとり残らず討死、知盛は行方知れずと注進し、持っていた刀を腹に突っ込みながら海へと入水した。義経への奇襲は失敗したのである。局は涙に暮れるが、やがて安徳帝とともに自害の覚悟を極め、大物浦の浜のかたへと向う。
浜へと来た典侍の局は、源氏から逃れるためこの海に入水することを安徳帝に言い聞かせる。すると幼い安徳帝は天照大神にこの世への暇乞いにと、伊勢のほうへ向かって手を合わせ、「いまぞ知る みもすそ川の 流れには 浪のそこにも 都ありとは」と詠む。局は嘆きつつも、意を決して安徳帝をしっかと抱き上げ海に身を投げようとした。そのとき、後ろから義経が局を抱きかかえ止める。義経は帝を小脇に抱え、局の手を無理に引いて渡海屋の中に入った。
かかるところへ知盛が、髪はおおわらわ体には矢を多く受けて負傷した姿で立ち帰り、よろぼいながら帝と局を呼ぶと、一間のうちより帝を抱え局を従えた義経が現われる。この家に逗留した時からそのあるじといいまた娘といい只者ではない、平家の落人であろうと察し、裏をかいて知盛の計略を退けたのである。だが安徳帝の身柄については決して悪いようにはしないと義経はいう。それでもなお義経に立ち向おうとする知盛に、武蔵坊弁慶が悪念を断ち切れとの意をこめた数珠をひらりと知盛の首にかけ、また帝が義経のことを仇に思うなと知盛に言葉をかけた。さらに典侍の局は持っていた懐剣で自害してしまったので、さすがの知盛もしばし言葉もなかった。