2020/03/06
ところで大日如来とはなにかを調べておきましょう。
大日如来の定義
大日如来は、真言密教の教主である仏であり、密教の本尊。一切の諸仏菩薩の本地、という大乗仏教の最高の権威らしいですよ。
密教とは空海を開祖とする真言宗のいわゆる東密や、密教を導入した天台宗での台密を指すのですから、空海と最澄が日本に導入したもので、従い真言宗と天台宗には大日如来があるはずです。
が、調べますと、高野山金剛峰寺には大日如来像はありません。あるのは京都の東寺です。
注:金剛峰寺の多宝塔には胎蔵界大日如来があるらしいが、多宝塔そのものが新しいものだから参考にはならない。
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では金剛界と胎蔵界とはどこがどう違うんや、と聞かれても私には答えることができません。私にはそれだけの知識がないからです。
しかしすくなくとも、上の二枚の大日如来画像を比較するかぎり、
真言宗 智拳印/冠から布(冠帯)が垂れている。
天台宗 法界定印/冠には余計な装飾がついていない。
ということですから、臼杵石仏の大日如来は空海の真言宗系であることがわかります。
注意して見ると、頭上にあって然るべき髻が冠の上半分とともに失われています。しかし、それでも、この仏頭が人に与えるまったりした安堵感には関係がないようです。私たちは修復が完了したあとも、この仏頭におおきな一体感を感じることができます。四国八十八か所巡礼の最終段階に高野山詣が行われるように、臼杵での一人・一時間巡礼でも、最終段階では弘法大師が迎えてくださるようです。
私はそう思いました。
そのほかの金剛界大日如来像を調べておきましょう。
清水寺の大日如来
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清水寺 「大日如来坐像」 重要文化財
像高さ233cmの木像 平安時代の作 重要文化財
智賢印を結んで座る大きな像である。
平安時代の作らしく穏かなゆったりとした雰囲気を持つ仏さん。
注:清水寺は平安時代には法相宗。真言宗の兼宗だったのです。
大阪・金剛寺の大日如来坐像 国宝
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このお像を安置する真言宗金剛寺のお堂は平安時代の終わりころ、1178年に建てられたという記録があります。造るのに必要な費用を出したのは鳥羽天皇の皇女、八条院です。
この像は堂と同じ時期に造られたと考えられます。やさしい顔、太っていない身体、ゆったりと組んだ脚、下半身にまとう布のしわが浅めで平行にあらわされていることなど平安時代後期に貴族たちの間で好まれた穏やかな姿です。仏像の姿形には流行があって、時代によって変わります。
両仏像とも冠帯つきの冠です。間違いございません。
また、金剛寺の大日如来像から察するに、臼杵の大日如来は金剛界大日如来であった、と推察することもできそうです。
ちなみに時代がやや下がって運慶・快慶も大日如来像を造っていますが、冠帯はなくなっています。ですから、臼杵の大日如来像は造られたのは平安時代で、その時代には金剛界大日如来と胎蔵界大日如来の形態上の区別が、印相のほかにも厳然として存在しており、臼杵の大仏は金剛界大日如来であり、かつ、ここ臼杵には弘法大師ゆかりの真言宗のお寺があったことが推察できる、と考えます。
私はすっかり素直な気持ちになって、大日如来に直接お願い事を聞いていただけたと喜んで、電動自転車に乗って臼杵の街へと帰りました。途中Joyfullというレストランで簡単に昼食を摂りました。電動自転車は私の身体に合わずひどく疲れましたので、臼杵の街に帰るなり臼杵市観光交流プラザに返しました。でも歩くよりはよほど時間の節約になりましたので、交流プラザの受付のお嬢さんには深く御礼申し上げました。
画像:私が交流プラザからお借りした自転車です。背後に「石敢當」と書いた大きな石塔が立っています。16世紀後半、大友宗麟支配下に臼杵が中国貿易で賑わっていた頃、中国商人が持ち込んだものらしい。「石敢當」という意味は突き当りという意味らしいですよ。
突き当りに「魔除け」があるという意味なのでしょうか。とても趣のある石塔です。こちらもついでに一礼することをお勧めします。
では皆さま、御機嫌よう。
PS
臼杵の金剛界大日如来の修復前の有様を『大分の石仏を訪ねて』千種義人 朝日新聞社 1988、P179 から引用する。
中尊の大日如来像は、像高二・八〇メートルあったと推定されている。その頭と顔の部分だけが残って、石壇の上に安置されている(口絵34)。智拳印(ちけんいん)を結んだ左手が破片の中から発見されたので、金剛界の大日であることがわかった。この頭部と顔は背後の屏風のように見えるところから落ちたのである、胴体も落ちて前の土壇の上にころがっている。頭部は後頭部だけうしろの岩盤につながっていて、ほとんど丸彫りに近いものだった。この頭の髪際からあご下までの高さは約五〇センチで。宝冠(ほうかん)と天冠(てんかん)台の残片が頭の上にのっている。幸いに顔面は、左耳の下部と瞳の部分を少し破損しただけで残っている。唇にはほのかに紅が刷いてある。この顔の気品の高さは誰しも認めるところ。新月形の長い眉、少し釣り上がった眼、瞼のふくらみ方、伏し眼、ひきしまった口、豊かな頬など。何となく日本人ばなれした顔であるから、これを彫ったのは中国から来た僧ではないかと推察されている。藤原初期から中期の制作といわれる。
(口絵34)