娘家族とともに長崎・大分旅行(1)

2021/03/26()

撮影:稲佐山山頂展望台より。2021/03/26撮影。中央にANAクラウンプラザホテル長崎グラバーヒル。右上に大浦天主堂。左中央にちゃんぽんの本家四海楼。中央ANAホテルの手前のギリシャ風建物が旧香港上海銀行長崎支店ビル。新旧ごちゃまぜのちゃんぽんの様相だ。

 

 私はこの三月で81歳になった。それこそ本当に「じじい」だ。

 

 しかし、人生でやるべきことは全部やった。おつりがでるほどやった。世界で行きたいところもほぼすべて行った。思い残すところはない。今はコロナで日本国民は全員が足止めだから、コロナ鎖国が始まる前に行っておいてよかった。

 

 近頃つくづく考えることがある。私は、人生を二度やった。苦しいことも耐えて耐えて耐え抜いて、一度目の人生をやり、それが終わったあとに、哲学者の道を全うした。本も書いた。この本を一体誰が読んでくれるのかいまはまだ分からぬのだが、国立国会図書館に入れておけば、将来誰かが読んでくれるだろう。

 

 でも、それによって誰かの共感を得たい、などという浅ましい魂胆はもっておらぬ。私ほどの境地になると、果たして共感してくれる人がでてくるかどうかは謎で、どちらかというと、誰も出てこない可能性のほうが大きい。

 

 

 成績優秀の孫のお祝いをしようと計画した昨夏の北海道旅行は、コロナ禍でキャンセルになった。今回は再度のチャレンジで、長崎と大分を回る。

 

 

 326日朝、予定した時刻にANA機は長崎空港に着いた。前の日から長崎に出かけていた私は、娘、孫、妻と久しぶりの再会だ。出口から孫が飛んできた。嬉しい。孫とは昨年の広島・道後娘家族とともに広島・松山旅行(1) - dousan-kawahara ページ! (jimdofree.com)以来の一年ぶりの再会だ。しばらく見ぬうちに思いっきり背が伸びた。賢そうな風貌は、他人には言わぬが、私の自慢だ。これから三日間、私がご接待する。

 

 

 1846年(弘化2年、大政奉還の21年前)の長崎の地図だ。オランダ船が二隻、南京船が一隻入港している。

 

 

 一部を逆転拡大すると、下のようになる。出島が見える。その上に新地と書いてあるのは唐人荷物蔵で、現在は新地中華街となっている。

 

 

 なぜ長崎のホテルをANAクラウンプラザホテルにしたかというと、それには歴史的観点の興味があったからだ。

 

 

 早朝のANAクラウンプラザホテルの写真。赤い矢印の部分を近くから観察すると、

 

 

 南山手居留地跡長崎居留地と国際航路|特集|長崎市公式観光サイト「 あっ!とながさき」 (at-nagasaki.jp)、長崎電信創業の地長崎電信創業の地 - 発祥の地コレクション (gnpp.jp)、国際電信発祥の地 (gnpp.jp)の三本の石柱がならんでいる。

 

 それらの説明文に曰く

 

 上の説明のなかに「南山手ベルビューホテル入り口」と書いた門が映っていますが、これこそ現在のANAホテルの場所なのです。

 

画像:同上

 

Old Photo of JapanOLD PHOTOS of JAPAN: 外国人居留地 1880年代の長崎 (oldphotosjapan.com)の説明をここに引用しましょう。

 

南山手から見た長崎港、大浦と東山手の外国人居留地の眺め。右手に見えるベランダのある建物は、ベルビューホテルで、現在長崎全日空ホテルグラバーヒルが建っている場所にあった。ベルビューホテルは1863年に開業した日本初の西洋スタイルホテルの一つ。外国人客がよく泊まった。

 

このホテルは南山手11番地Aにあって、建てたのはイギリス領事館の警官だったマシュー・グリーンである。持ち主は妻のマリー・エリザベスだった。最初この建物はイギリス領事館の仮事務所だった。マリー・エリザベスは1863年10月に、イタリア人のC.N.マンシニの協力でこのホテルの経営を始めた。マンシニはその後1865年にホテルを辞めて菓子職人になっている。

 

ホテルができてから僅か四年後の1867年に、N.B.デニスが「The Treaty Ports of China and Japan」の中でベルビューホテルのことを、「客が頻繁に訪れる、経営の上手なホテルで、定食は1ドルで食べられる。また、一週間滞在する場合の料金は、全てを含めて21ドル。港と市街地の眺めが大変好い。」と紹介している。

 

 

1898年(明治31年)に長崎ホテルが海岸通に建つまでは、ベルビューホテルは長崎で最も大きく、最も豪華なホテルだった。

 

 こういうわけで、長崎に海底ケーブルを敷設したデンマークの大北電信会社も、このベルビューホテルのなかに明治4年事務所を開設したのです。ベルビューホテル内の通信室に勤務した大北電信会社の通信員フレデリック・コルヴィの長崎滞在記CiNii 図書 - 大北電信の若き通信士 : フレデリック・コルヴィの長崎滞在記という本がありますから、興味がある方はお読みになったらいかがでしょう。明治初めの長崎の様子を知るための絶好の資料です。

 

 

 さて空港に到着した私の孫、娘、妻はご機嫌よくタクシーでホテルに到着し、すぐホテルと目と鼻の先にある四海楼でちゃんぽんの昼食をいただきました。

 

 

夕食の妨げになるから量をおさえてと注意しつつも、美味しくいただきました。

 

 

11:45頃に行ったので、窓際に座ることができました。長崎港の素晴らしい眺めも堪能いたしました。

 

 

ANAホテルには午後1時に観光タクシーを申し付けておきましたので、少し時間があることから、ホテル横のグラバー通りを登り、大浦天主堂を見物してきました。

 

 

大浦天主堂は1597年に殉教した26聖人(日本二十六聖人 - Wikipedia)に捧げられているから、したがってこの教会は殉教の地である西坂公園(JR長崎駅の東)の方向を向いている。(西坂公園については、下のGoogleMap写真を参照せよ。)

 

画像:日本26聖人記念碑と日本26聖人記念館日本二十六聖人記念館 - Wikipedia(左)と記念聖堂(右)。GoogleMapから