2020/10/20
写真:関門橋。この高速道路関門橋の門司側のたもとに和布刈(めかり)神社がある。
画像:Google Map, 2020
画像: 和布刈神社
社伝によると仲哀(ちゅうあい)天皇9年(西暦200年)創建とされる。神功皇后が神の教えのままに、現在の朝鮮半島である三韓の征伐に向かわれ勝利した際に、報賽の思召をもって創建されたと言われている。
写真:門司駅前の和布刈神事(めかりのしんじ)像 Wikipedia
和布刈神事は神功(じんぐう)皇后[4世紀後半頃の伝説的人物で仲哀天皇の皇后]が三韓征伐[神功皇后の馬韓・弁韓・辰韓征伐の物語]からの凱旋を祝って、自ら神主となり、早鞆の瀬戸のワカメを神前にささげたという古事に由来しています。昔は「神事を見ると目がつぶれる」と言われ、神罰を恐れて拝観する者はありませんでしたが、戦後から拝観は解禁となっています。行事は、毎年旧暦元日の早朝に行われます。横代湯立神楽(よこしろゆたてかぐら)が奉納された後、3人の神職が干潮の海に降りて鎌でワカメを刈りとり、それを神前に供えて航海の安全、豊漁を祈願します。漆黒の闇を背景に烏帽子、狩衣、白足袋に草履姿の神職たちが、松明を頼りにワカメを刈りとる様子は幻想的で、関門海峡両岸の人々に春の訪れが近いことを感じさせてくれます。 (説明:)
日本書記(国立国会図書館デジタルコレクション 日本書紀巻8-19 コマ番号2/109 ~ 5/109)に記載されているのだが、九年(西暦200年)足仲彦天皇(仲哀天皇)が熊襲とともに新羅を平らげることを決断された故事から、山口の伝説干珠満珠物語(かんじゅまんじゅものがたり)が造られた。(参照:)
仲哀天皇は9年に薨去されたのだが、妻の神功皇后が夫の遺志を継いで、新羅征伐をされたようだ。詳しくは『日本書記』巻第九(摂政前紀)を読め。
ただし、朝鮮側の歴史書『三国史記』には西暦200年頃の史実は描かれていない。だからというわけでもないが、『日本書記』巻第九(摂政前紀)は「伝説」ということになっている。