棟方志功2

2022/01/16

 つまり、棟方志功には神秘体験Aの体験が過去にあって、これを表現できないものか思案していたのだが、ゴッホのヒマワリの絵を見た途端に、「これだ、この表現方式がある」と確信したのです。

 

 

 では棟方志功はどこでどのようにして神秘体験Aを経験したのでしょうか?

 

画像:『棟方志功』新潮日本美術文庫44  6 華厳譜

画像:同上

 

 いつどこでどのようにして、の疑問についても、棟方志功ははっきりと彼の自伝に書きつけています。

 

『棟方志功 わだばゴッホになる』P25 生い立ち から

 

次は六年生の秋の話です。津軽平野で陸軍特別大演習というのが行われました。大正天皇陛下の行幸もあり、大変な騒ぎでした。フランスからモーリス・ファルマン式という飛行機が来ました。複葉の竹と絹でできたトンボのような飛行機です。昇降舵が前にあって、方向舵が後ろでバタバタしていました。

 

雨天体操場で体操をしていると、窓のすぐそばを超低空で轟音と共に飛び去って行きました。その音の高いこと。発動機が後ろ、プロペラも機翼の後ろについていました。前は人間だけで、ハンドルの手もカジ取る足もよく見えました。

 

その次の日、飛行機が青森の大店の鎌重(かまじゅう)の別荘の近くの田んぼに墜落したというのです。墜落じゃない不時着だったのですが、「飛行機が落じだ!」ということで、もう学校中勉強もなにもあったものでなく、校長先生から子使いさんまで、みんなが一斉に校舎をとび出して、現地に向かって駆け出しました。ワッーと夢中で駆けて、わたくしも飛行機のことが一杯になって、「大変だァ、大変だァ」と、何が大変なのか一所懸命走りました。

 

田んぼの小川をエイと飛んだとき、足を何かにひっかけたのか、わたくしは前のめりに倒れてしまいました。ふッーと目が醒めるとわたくしは小さなかわいい真っ白な三弁の花を握って、笑っていたようでした。あまり静かで奇麗で思わず笑ったのでしょう。

 

「ハァ、きれいな花コ」と言っていました。飛行機のことなど、すっかり忘れていいました。「ハァ、これが美しいというものか、こんなキレダもの、生まれさせたいナ。」そうこみ上がってくるモノを、わたくしは拝んでいました。

 

沢瀉(おもだか)という水草で、ハサミのような三叉になっている葉がついていました。まだ美ということには思いも寄らないことでしたが、今にしてはっきり思うのは、絵を描くというどうにもならない本当のモノを、天地からいただき受けた思いでした。仏教界の拈華微笑(ねんげみしょう)の情景もあるいはこんな様子だったのでしょうか。

 

 

 

 場所は青森市です。この頃の飛行機は大抵練兵場で飛ばしたものなのですが、「鎌重(かまじゅう)の別荘の近くの田んぼ」とはどこか知りませんけれど、練兵場の近くだったと仮想して、棟方志功は下の地図で、長嶋小学校と記した地点から、練兵場の方角に走ったものと推定されます。ところが途中で、転んだ。

 

 

 だから、場所は長嶋小学校と練兵場との中間あたりと推定。日付は青森練兵場にモーリス・ファルマン式という飛行機が来た次の日です。大正4年秋のことですが、詳しい日付はあとで地元新聞社で調べることにしましょう。

 

 田んぼのなかで倒れた当時12歳の棟方志功は突然、別の次元の世界に入っていたのです。「あまり静かで奇麗で思わず笑った」のだそうです。そこには「美の極致、本当のものが在った」、と彼は報告しています。

 

 これが棟方志功の神秘体験Aです。この時の彼の年齢は、12歳、大正4(1915)のことです。

 

 

 

 神秘体験とは、このように、「思いもかけず」「予告なしに」到来するのです。そして本人は誰にもそのことを話しません。話すのは棟方志功のように、昭和49年、日本経済新聞「私の履歴書」のなかで、彼が71歳のときのことでした。死の前年でした。

 

 思い出してください。林武の場合は明治37年の冬でした。彼が14歳のときでした。(参照:hayashi1 (lcv.ne.jp))そして、彼も他人には一言も話ませんでした。

 

 

 この経験が一生の経歴のなかで早かったのか、遅かったのか、人はいろいろ推論をたてますが、神秘体験の来方には早い、遅いの区別はないのです。神秘体験は、神秘体験という一個の個性が来ると決めたときに本人に来るのです。本人が決められるわけではありません。良し悪しの区別もありませんし、早い遅いで優劣がつけられるものでもありません。

 

 

 で、棟方志功はこの経験を誰にも知らせず、じっと心の中にしまい、時期のくるまで待ったのです。その時期というのが、上に述べたように彼が18歳のときのことでした。そのとき彼は「わだばゴッホになる」と誓いをたてたのです。

 

画像:『棟方志功』新潮日本美術文庫44 12 女人観世音板画巻

画像:同上

 

 人は浜田庄司、柳宗悦、河井寛次郎が棟方志功を創ったというのですが、そういうことはありません。彼らは、棟方志功が世に出るときに「財政的に」支援しただけのことです。棟方の神髄を創ったわけではありません。そういうことではなくて、神秘体験Aが棟方志功を創ったのです。