2022_11_23
昨日は楽しかった。
クラブ・ツーリズムの
『どの日に行っても5,000円!福岡県内 5つの紅葉名所めぐり』【博多出発】<46名以下/ワクチン・検査パッケージ>「明太子すくい持ち帰り」のお楽しみつき!
に乗ったのだ。でもまさか久留米市美術館で青木繁・坂本繁二郎展覧会が見れるとは思わなかった。吃驚して腰を抜かした。
行程表は次。
博多駅朝9:00出発というのは別府人にとってはつらいところで、鉄道でもバスでも間に合わない。そこで前日の午後、高速バスで博多に出かけた。宿泊はAPA Hotel博多駅前2丁目にした。
このホテル正解だった。新築ホヤホヤで綺麗だし、部屋は狭いけれども、内部は完璧で、近代人が安楽に暮らせる装置がすべて完備されている。この次博多に来ることがあったら次もこのホテルにしよう。全国旅行支援で宿泊代¥9,000が割引で¥4,200になる筈だったが、Visa Cardトラブルでおじゃんになり、現金で\9,000支払った。でも、OK。
23日の朝は小雨が降っていた。この雨は午前中に収まる予定だった。
時間通りに博多駅筑紫口バス乗り場に行ったのだが、ワクチン証明書を忘れてきたことに気がつき、ショック状態。バスには乗れません、と係員から宣言を受けた。結局どうしたかというと、10月に北海道と山形県のツアーに乗ったのだから、本社を調べろと要求し、発車間際に解決した。やれやれ。
お隣は90歳にもなろうかと思われるおじいさん。
今日訪ねる場所は次の通り。
予定は変更され、太原のイチョウを後にして、まず初めに柳坂曽根の櫨並木を見に行く。
こうやって写真に撮ると素晴らしく美しいが、実は小さな小川に沿って並ぶ櫨の並木というだけである。
現代では蠟燭(ろうそく)は石油系のパラフィンで製造するが、明治・大正時代まではろうそくは櫨(はぜ)の実を精製して作っていた。だからもう日本には残っていない櫨並木がここには残っており、秋になると、モミジより一足先に真っ赤に紅葉するので、日本人には愛されている。
場所はGoogleMapでここ。久留米市の東で、久大本線を跨いでいる。この道を辿り南方に歩くと、曹洞宗の永勝寺に達するが、途中で櫨並木が途切れるので、誰も永勝寺までは歩かない。
国鉄久大本線の踏切を渡ったところに句碑がある。
拡大図は
なんと、青木繁が現れるではありませんか。青木繁は久留米出身の画家です。
我が国は筑紫の国や白日別 ( しらひわけ )
母ゐます国 櫨多き国
「 わがくには つくしのくにや しらひわけ ははいますくに はじおほきくに 」
白日別け ( しらひわけ ) は古事記の文中では 「 筑紫(つくし) 」 と同じ意味で
どちらも現在の筑前・筑後地方のことさしている。
櫨は 「 はじ 」 と読み、はじとは櫨の木の古語であり、
古事記や万葉集などに登場している。
当地方では木蝋をとるために幕末の頃から栽培が盛んで、
かつての筑後平野の晩秋から初冬にかけての紅葉は、さながら櫨の国の景観だった。
また、この短歌中の 「 はじおおきくに 」 の 「 はじ 」 は
櫨と恥をかけたことばであるという説もある。
青木 繁は現在の福岡県久留米市荘島町で、
旧久留米藩士である青木廉吾の長男として生まれた。
武士の系譜を引く父は厳格な人物で息子の画家志望を聞かされた時、
「 美術だと。武術の間違いではないのか 」 となじったという逸話が残っている。
青木は同じ久留米生まれの洋画家坂本繁二郎とは同い年で小学校の同級生、
そして終生の親友であった。
同時代人の証言や本人による『自伝草稿』によれば、
青木は歴山帝に憧れる早熟な文学少年であったとされる。
絵画のほかに短歌もよくし、28年の短い生涯に多くの文章を残している。
引用:福岡県久留米市 『 我が国は筑紫の国や・・・ 』 青木 繁 - 「 九州 ・ 沖縄 ぐるっと探訪 」 (goo.ne.jp)
なお揮毫した福田蘭童 - Wikipediaは青木繁の長男である。私たちにとって昔のラジオ番組笛吹童子 - YouTubeは懐かしい。ヒャラリヒャラリコ ヒャリコヒャラレロ。
櫨についてだが、次の説明板があった。