2022/06/14
旅行日は2006年4月4日です。
上は高松塚古墳 - Wikipediaから借用した高松塚古墳西壁の女性群像です。この古墳が造られたのは西暦700年頃だというのですから、この壁画が描かれてから1300年以上たっていますが、見事な美しさを保っています。それどころか、1300年前の当時の女性の服装が明瞭に映し出されています。
大変な宝ですね。聖徳太子はもう少し前の人ですが、法隆寺が建立された頃の人たちは、このような姿であったのだと考えると、感無量ですね。
女子が手にもつのは、円翳(えんえい、円翳)と払子(ほっす)で、これらの持ち物は、「貞観儀式」にみられる元日朝賀の儀式に列する舎人ら官人の持ち物と一致する(引用:高松塚古墳 - Wikipedia)、というのですから、お正月の宮中の正装というわけです。
高松塚古墳壁画 西壁女子群像
所在地 奈良県高市郡明日香村平田
位置 北緯34度27分44.0秒 東経135度48分23.3秒座標: 北緯34度27分44.0秒 東経135度48分23.3秒
形状 二段円墳
規模 直径23m、高さ5m
出土品 壁画(国宝)、銅鏡など
築造時期 藤原京期
(694年 - 710年)
被葬者 不明
史跡 1973年(昭和48年)特別史跡
上の女子群像の隣、同じ西壁に描かれていたのが、次の「白虎」です。
壁画は石室の東壁・西壁・北壁(奥壁)・天井の4面に存在し、切石の上に厚さ数ミリの漆喰を塗った上に描かれている。壁画の題材は人物像、日月、四方四神および星辰(星座)である。東壁には手前(南側)から男子群像、四神のうちの青龍、その上に日(太陽)、女子群像が描かれ、西壁にはこれと対称的に、手前(南側)から男子群像、四神のうちの白虎、その上に月、女子群像が描かれている。男子・女子の群像はいずれも4人一組で、計16人の人物が描かれている。中でも西壁の女子群像は(壁画発見当初は)色彩鮮やかで、歴史の教科書をはじめさまざまな場所でカラー写真が紹介され、「飛鳥美人」のニックネームで親しまれている[7]。人物群像は一部を除いて道具を携えていた。女子が如意(にょい)・円翳(えんえい)・払子(ほっす)を、男子が胡床(こしょう)・毬杖(ぎっちょう)・蓋(きぬがさ)・武具・鞄を持ち、それらは「貞観儀式」にみられる元日朝賀の儀式に列する舎人ら官人の持ち物と一致する。この元日朝賀の儀式には日月・四神の幡も立てられる。(引用:高松塚古墳 - Wikipedia)
これらの美しい画像がどのようにして撮られたのかは、次の説明でご理解が得られるでしょう。
東大教授秋山光和は、「高松塚古墳と飛鳥」末永雅雄、井上光貞著 中央公論社 1972で次のように述べる。
P39
(1972年)五月下旬、日本に帰ると同時に、私はできるだけ早く現在可能な限りの資料に接しようと努めた。特に壁画そのものの正しい色調と細部の表現を自分の目で確かめることが何よりの希望であった。さいわいに末永所長の好意あるお計らいで、便利堂のオリジナル・カラー・フィルム(1)を、長時間細かく観察し、多くの新しい知見を得ることができた。特に原画にもっとも近い第二次撮影分のフィルムを、調整された透過光で眺めた印象はすばらしかった。その明るくさわやかな色調は、千数百年にわたる暗闇の中で、古代人の色感をカプセルのように保存し、われわれに伝えた稀有のものといえる。ルーペで拡大して見る細部の線描、顔の表現法などもまことにいきいきしており、絵画としての優れた質感を感じとらせた。続いて橿原の研究所では出土の鏡や金具類を詳さに実見でき、さらに明日香の地に立って、古墳のたたずまいや立地の環境にふれ、発掘の当時を偲んだ。調査に加わった方々からのお話も貴重であった。
P59
(1) 高松塚古墳のカラー写真撮影は、発掘担当者の適切な措置により、壁画発見の翌日、三月二十二日に便利堂によって迅速に行われた。いち早く新聞や雑誌に流布されたカラー・フィルムはこの第一回撮影分の複写である。しかし慎重を期した撮影者大八木威男氏はその現像結果をみたうえ撮影条件を改め、二十四日に第二回の撮影を行ない、原画の色調に近いオリジナル・フィルムが作成された。(本書の口絵は橿原考古学研究所の報告書図版と同様、これから直接製版されている)。困難な条件のもとで撮影に成功した大八木氏の技術と努力は高く評価されねばならない。なお撮影にはジナーカメラにスーパーギロン一九〇ミリ広角レンズを用い、照明は一五〇ワット写真電球が左右から各一個(ただし一方は盗掘孔から)照射された。フィルムはエクタクロームBタイプ、五ⅹ七インチ版である。
このように精密に描写された写真撮影の原板が京都市便利堂 株式会社 便利堂 美術印刷 美術出版 美術写真 (benrido.co.jp)に残っており、この写真原板こそ国宝高松塚古墳壁画の核心となっている、と思われる。(注:写真撮影時の記録 コロタイプ通信 from benrido collotype atelier )
奈良県立橿原考古学研究所所長の末永雅雄の指揮のもと、1971年3月21日に発見された高松塚古墳壁画は、その後文化庁所管となり、文化庁の指示により、壁画の全体に剥落防止目的で、合成樹脂硬化剤が塗布された。元々の壁画は伝統的な岩絵の具(無機顔料)で作成されていたものが、有機物の塊である合成樹脂硬化剤を表面に塗布されたので、数年のうちに壁画が黒黴で覆われる事態となった。
私が高松塚古墳を訪問した2006年4月は、黒黴発生に慌てた文化庁が、黒黴除去のため、古墳を分解し、石壁を運び出す作業を行っている時期だった。
写真:2006年4月4日撮影。
カビの発生原因については一言も言及していません。1300年も無傷で保管されていたものが、文化庁の管轄下に置かれたら、わずか20年で黴だらけになってしまったのです。その原因くらいは説明してくれて当然ではないかと、庶民は考えるのです。
こうした文化庁の保存努力は成功しませんでした。岩絵の具に入り込んだ黒黴は「除去不可能」なのです。文化庁は実は文化破壊庁だったのかもしれません。
無残な結果は次でした。どうぞ冒頭に掲げたオリジナルの便利堂写真と比較してください。私は、高松塚現地で現在公開されている修理後の壁画ではなく、便利堂の保管する写真ネガに国宝の価値があると信じます。
写真:壁画館。2006年4月4日撮影。
こういう訳で、私は壁画館で黒黴以前の写真を見学しただけで、高松塚古墳を去りました。残念です。
皆樣にあっては、どうぞお役所(お上)の失態には目をつむり、お上のご機嫌を損なわないように注意して、心静かにお過ごしください。ややこしい話をして申し訳ありません。
桜が咲き、