2020/04/03~17
別府での近況報告は遅れていますが、なにもしていなかったわけではありません。よたよたした身体を引きずるようにして毎日散歩に出ているのです。「歩け歩け」です。一日平均2時間はたっぷりと歩きます。だからどんどんと別府の街には慣れてきて、大抵のところはわかるようになってきました。
最近、私の気に入っているのは堀田(ほりた)から下り、観海寺に抜けるコースです。
画像:GoogleMap, 2020 青線がバス36番湯布院行き。赤線が徒歩。
東京のお偉方は「3密」は避けなさいと言っておられるようだが、別府ではバスも乗客が少なくなってガラガラ状態だし、窓は下部を少し開けているから、ヴィールスは風邪で飛んで行ってしまう。
実際、やまなみハイウエイを「板の平向井病院前」で降車してから、杉乃井ホテルまではほとんど誰にも会わなかった。それほど人が少ないところを歩くのだから、新型コロナはまず存在しない。のびのびとお散歩ができる環境だ。
それよりも私のお気に入りのポイントは、特に前半の古雅な趣である。道は狭く、曲がりくねっているが、古い神社だとか、石塔だとか、石仏だとかが散在していて、まるで京都の鞍馬あたりを散策しているような趣である。こういう所を散策していると心が鎮まってくる。嬉しい。
やまなみハイウエイを出て、向井病院の対面から細い山道に入る。すぐ右手に「白糸の滝」が見える。
2020/04/04撮影。落差もあり、水量も多いが、地理
院地図にも載っていない滝である。椿の花が額縁
になっていて美しい。
ここを少し戻ったところに「白糸の滝温泉」がある。
2020/04/04撮影。ひっそりとしており、とても観光客が来る雰囲気ではない。
2020/04/04撮影。白糸の滝温泉。
誰もいないので庭先の湯室をのぞかせてもらった。なかなか素敵な湯舟である。時間と金銭的余裕があれば一度は入ってみたいものだ。ただ、別府に暮らしていると、こういう温泉はまず少なくとも500円は取られるから、普通のひとは入らない。値段が高すぎるのだ。
白糸の滝温泉を出て、田舎道をブラブラ降りていくと、堀田(ほりた)温泉に出るが、ここには立ち寄らずに、また別府庄内線県道52号に抜けずに、堀田温泉前の非常に細い小道を下り、温泉櫓の立つ鞍部を抜けて溜池に降りる。昔の農業用水だと思うが、鯉が泳いでいる。
2020/04/16撮影。
ここからだらだら坂を上ると、鶴見岳山麓を見晴るかす絶景が楽しめる。中央やや左手の立派な建物は向井病院だ。
2020/04/16撮影。右側に街路樹に隠された高速道路がある。
2020/04/04撮影。右下が向井病院。山肌に点々と桜が咲いている。下左よりに堀田温泉。
この坂を上り切ると、更に素晴らしい海側の絶景が望まれる。
ここに説明板がある。
石垣原合戦古戦場~宗像掃部陣所跡
慶長5年(西暦1600年)旧暦9月13日、別府の扇状地を舞台に黒田官兵衛の軍勢と旧領回復を目指す大友義統(よしむね)の軍勢との間で、激しい戦いがありました。石垣原と呼ばれるこの戦いは、関ヶ原合戦の2日前に両軍が激突し、黒田軍の勝利で終結しました。
黒田軍は加来殿山(かくどのやま)および実相寺山(じっそうじやま)に布陣し、七ッ石から南立石公園周辺の一帯が激戦地であったと伝えられています。
宗像掃部(むなかたかもん)は、大友氏の旧臣で主家改易後、岡城主の中川秀成(ひでしげ)のもとに属していました。大友義統が旧領回復を目指し別府の地に上陸すると、同じく中川氏に属していた田原紹忍(たばるしょうにん)と共に駆けつけ、、この御堂原(みどうばる)の台地に布陣しました。9月13日の合戦では、大友軍の主力として戦い奮戦しますが、激戦の中で討死したと伝えられています。
誰でもそう考えるに違いないけれど、大友義統の軍隊(3000人)は中津藩の黒田如水の軍隊(8000人)よりも遙かに劣勢なのであるから、なにも観海寺の山を下りることなく、観海寺の急峻な山の陣所にひきこもって、山を登ってくる黒田勢を迎え撃つだけで事は足りた、と思う。なぜ七つ石まで降りて平地で戦ったのかまったく疑問だ。ここらあたりが大友義統の無能と評される由縁なのでしょうか。
写真:2020/04/19撮影。七つ石にある古戦場表示から