2020/05/21
先に貞観時代の政情不安の状態につき、「時代の変わり目」という見方を書いたが、貞観時代は、日本の地殻構造の変わり目でもあったらしい。
次の年表は日本史年表Ⅱ (平安時代) の一部を拡大したものだが、よく注目して御覧頂きたい。
画像:日本史年表Ⅱ (平安時代)
筆者はこの年表に赤線を引いておいたのだが、この貞観時代に大きな地震と噴火が三回も起っている。激甚災害が立て続けに発生している。
1) 富士山の貞観噴火
画像:
富士山の貞観噴火は我々の歴史上で知る噴火の最大のもので、平安時代初期の864年(貞観6年)から866年(貞観8年)にかけて発生した、富士山の大規模な噴火活動である。 この噴火は、山頂から北西に約10km離れた斜面で発生した大規模な割れ目噴火である。このとき大規模な溶岩流出が生じ、剗の海(せのうみ)が埋もれ、西湖と精進湖が生まれ、溶岩台地の上に青木ヶ原の樹海が創出された。(Wikipedia )
廿五日庚戌。駿河國言。富士郡正三位淺間大神大山火。其勢甚熾。燒ㇾ山方一二許里。光炎高廿許丈。大有ㇾ聲如ㇾ雷。地震三度。歴二十餘日一。火猶不ㇾ滅。焦ㇾ岩崩ㇾ嶺。沙石如ㇾ雨。煙雲鬱蒸。人不ㇾ得ㇾ近。大山西北。有二本栖水海。所ㇾ燒岩石。流埋二海中一。遠卅許里。廣三四許里。高二三許丈。火焔遂属二甲斐國堺一。
(国史大系 第4巻 日本三大実録 吉川弘文館 平成12年12月20日 新装版第1刷 P135、あるいは国立国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991094 コマ番号86/377)
2) 播磨國地震
画像:阪神大震災 朝日新聞記事から 1995年1月17日午前5時46分
は、平安時代前期の貞観10年7月8日 (旧暦)(868年8月3日)、播磨国で発生した地震である。震央は現在の兵庫県姫路市付近、規模はマグニチュード 7 程度で、山崎断層の活動によるものと考えられている。
播磨諸郡の官舎・諸定額寺の堂塔がことごとくくずれ倒れ、平安京内外で建造物がところどころ崩壊した。
十年七月 十五日 丙午。播磨國言。今月八日。地大震動。諸郡官舎。諸定額寺堂塔。皆悉頹倒。
(六国史 : 国史大系。類聚國史 国立国会図書館デジタルコレクション 000000565979 https://www.dl.ndl.go.jp/api/iiif/950692/manifest.json コマ番号531/681)
1995年に発生した阪神・淡路大震災(M7.3)よりわずかに小さかったが、にもかかわらず激甚災害と呼べるものであった。
3) 貞観三陸沖地震
画像:三陸沖地震 2011年3月11日 14:46頃、三陸沖
は平安時代前期の貞観11年5月26日に日本の陸奥国東方沖(日本海溝付近)の海底を震源域として発生したと推定されている巨大地震である。地震の規模は少なくともマグニチュード8.3以上であったとされる。地震にともなって発生した津波による被害も甚大であった。2011年3月の三陸沖地震はM7.3であったから、この地震と比較すると、貞観三陸沖地震の巨大さが想像できる。
廿六日癸未。陸奥國地大震動。流光如ㇾ晝隱映。頃之。人民叫呼。伏不ㇾ能ㇾ起。或屋仆壓死。或地裂埋殪。馬牛駭奔。或相昇踏。城郭(*)倉庫。門櫓墻壁。頽落顚覆。不ㇾ知二其數一。海口哮吼。聲似二雷霆一。驚濤涌潮。泝洄漲長。忽至二城下一。去ㇾ海數十百里。浩々不ㇾ弁二其涯涘一。原野道路。惣爲二滄溟一。乗ㇾ船不ㇾ遑。登ㇾ山難ㇾ及。溺死者千許。資産苗稼。殆無二子遺一焉。
(国史大系 第4巻 日本三大実録 吉川弘文館 平成12年12月20日 新装版第1刷 P248、あるいは国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991094コマ番号151/377)
画像:GoogleMap, 2020 伽藍岳爆発口、火男火売神社、坊主地獄の位置関係。
これらの激甚災害1) 2) 3)と比較すると、伽藍岳の水蒸気爆発は規模は小さかったとはいうものの、その災害は、歴史書「三大實録」に次のように特記されているほどのものであった。(貞観9年2月26日記事)
廿六日丙申。
大宰府言。從五位上火男神。從五位下火賣紳。二社在ニ豊後國速見郡鶴見山嶺一。山頂有二三池一。一池泥水色青。一池黒。一池赤。去正月廿日池震動。其聲如ㇾ雷。俄而臰如ニ流黄一。遍二⁻満國内一。磐石飛乱。上下无ㇾ數。石大者方丈。小者如ㇾ甕。晝黒雲蒸。夜炎火熾。沙泥雲散。積二於數里一。池中元出二温泉一。泉水沸騰。自成二河流一。山脚道路。徃還不ㇾ通。溫泉之水。入二於衆流一。魚醉死者无万數。其震動之聲經二-歴三日一。
(国史大系 第4巻 日本三代実録 吉川弘文館 昭和九年七月十八日 平成12年12月20日新装版第一刷 P212、あるいは国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991094コマ番号130/377)
筆者注:
臰 シュウと読む。におい。におう。=臭
流黄 硫黄
遍二⁻満 遍満
无 ムと読む。ない。=無
方丈 1丈 (約 3m) 四方
炎火 エンカと読む。炎を上げて激しく燃える火。
熾 サカンと読む。火の勢いが盛んであるさま。
徃 往に同じ
経歴 経過すること。
注: Wikipediaによれば、上の記述の現代語訳は次だそうです。
貞観9年(867年)伽藍岳で水蒸気噴火
867年(貞観9年)2月28日、伽藍岳で水蒸気噴火が発生。青泥池、黒池、赤池が震動し硫黄臭が遍満する。さらに噴火し、沙泥が数里四方に積もる。泉が沸騰し、川となって山麓の道路を塞ぎ、川に至って魚数千万が死ぬ。
写真:2020/04/19撮影。別府市荘園の七つ石。
私自身は思っているのだが、現在別府公園内にちらばっている大きな岩石とか、別府市荘園に転がっている七つ石は、貞観9年の伽藍岳水蒸気爆発の際に飛来したものであろう、と考えている。上の「三大實録」にもこう記載されている。
磐石飛乱。上下无ㇾ數。石大者方丈。小者如ㇾ甕。
ところで火男火売神社由緒に書かれている「貞観9年1月20日鶴見山の大爆発」とは技術的に見て、いったいなんだろうか?
難しい話は別にどこかですることにして、簡単な実情は大分県がインターネットで公開している砂防資料で読み解くことができる。
この資料によれば、技術的なポイントは、次のようにまとめられる。
1) 歴史時代における噴火は伽藍岳であり、鶴見岳ではない。
2) 「三大實録」に記載されているのは、貞観九年(867)の伽藍岳の水蒸気爆発であり、
3) 「豊日志」と「國史」に記載されているのは、宝亀2年(771)の同じく伽藍岳の水蒸気爆発である。
注:水蒸気爆発とはマグマの流出を伴わない火山爆発。
さあ、これで火男火売神社由緒に書かれている事実の裏付けがとれました。
また、火男火売神社についてですが、この神社のことは、江戸時代、享和4年(1804年)に幕府に献上された豊後国誌に書いてある。簡単に調べるには国立国会図書館のデジタルコレクションを調べたらよい。(https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1181222コマ數8/185)
なんと書いてあるかというと、
「神詞」 火男火賣神祠
在二朝見鄕鶴見山上一。延喜神祇式曰。火男火賣神社二座在二速水郡一即此。豊日志曰。寶龜三年。二月。大隅國霧島山神降二臨于鶴見嶺。國司紀朝臣鯖麻呂以二聞其靈兆一。因建ㇾ祠奉祭。以列二官社一。稱二霧島大神火男火咩神一。是也。盖火男火賣。乃伊弉諾伊弉册二神也。續日本後紀仁明紀曰。嘉詳二年。六月。奉ㇾ授二豊後國火男火咩神並從五位下一。三代實録清紀曰。貞觀九年。八月。從五位上火男火賣神。並授二正五位下一。今神祠在二山下一舊址在二嶺上一。按二松壽寺記一以二此祠一爲二熊野三社神一。謬妄甚矣。盖元亭釋書。有下釋智真。弘長中。登二熊野山一。□(注下を見よ)眞光寺一。祈二熊野祠。蒙二神託示一。巡二遊諸州一。詣二鶴見祠一。刻二彌陀號於樟樹一。到二鐡輸。創二松壽一。之説上。用二此事一附二會之一。未ㇾ今下延喜祀曰二二座一。而不上ㇾ曰二三座一也。
注:
于 訓読み ここ(に)
咩 音読み ビあるいはミ
盖 「けだし」と読み、「思うに」「多分」など推定を意味する。
伊弉諾 イザナギ
伊弉册 イザナミ
乃 訓読み すなわ(ち)
按 音読み アン しらべる。問いただす。考える。の意
□ この漢字は漢字辞典に見当たらない。原文を参照せよ。
松壽寺 Googleで検索すると、別府市永福寺。場所は鉄輪。
また、國司紀朝臣鯖麻呂が建てたという鶴見山上の祠は、次の写真に写っている祠のようです。
撮影:2020/05/28。これが鶴見山上の祠。祀られている神様は霧島大神火男火咩神。
このように過去の歴史書に明確に記述されている神社は、日本にあまり数多くありません。平安時代からの歴史と密着している神社が、身近に存在する地域、に住んでおられる別府の方々は、歴史との共存を実現されているようで、まことに羨ましい。