2018/07/07
画像:合衆国上院議員アルバン・ウィリアム・バークリー(Alben W. Barkley (D-Kentucky) )がブーヘン
ヴァルト強制収容所の解放を視察した。バークリーはのちにハリー・トルーマン(Harry S. Truman)の
下で合衆国副大統領となった。
大戦末期の1945年4月3日、収容所にアメリカ軍が接近してきたので親衛隊全国指導者ハインリヒ・ヒムラーが撤収を決定。囚人たちはテレージエンシュタット強制収容所へ移送する計画であったが、あまりの数に移送しきれず、囚人2万1000人を収容所に残したまま同年4月11日アメリカ軍第80歩兵師団によって解放された。
ここに到着するまでの間、何度も激しい戦闘をくぐりぬけ、死体もたくさん見てきたはずのアメリカ兵たちもブーヘンヴァルト強制収容所の惨状には思わず言葉を失った。 腐乱した囚人の死体があちこちに転がり、中庭には裸の老若男女の死体が山積みにされていた。生き残っていた囚人たちも肉がほとんどなく骨と皮のようにやせ細っていたのだった。
その光景を見たジョージ・パットン将軍は激怒。そのため彼はドイツ国民に自国の政府、すなわちナチス政権の犯した非人道的行為をしっかり目に焼き付けさせるため、付近の都市であるヴァイマルの市民たちを収容所へ連れてくるよう命じた。命令を受けたアメリカ軍憲兵隊は約2000人の市民を連行し、収容所内の惨状を見させた。解放後の収容所に連れてこられたドイツ人たちはほとんどがその光景から目をそらすか気を失ったかのどちらかだったという。
(出典:)
注:
『夜』エリ・ヴィーゼル 村上光彦訳 みすず書房 1995 P184 から引用。
第 九 章
私はまだ、四月十一日までブーヘンヴァルトに留まらねばならなかった。この時期の生活については語るまい。それはもはや重要性かなかった。父の死後、もはやなにものも私の心には触れなかったのである。
私は児童ブロックに移された。そこには六百人の仲間がいた。
前線が近づきつつあった。
私は、まったくなすこともなく日々を過ごしていた。願いはただひとつ—―食べること。私
はもはや、父のことも母のことも考えはしなかった。
時おり、私は夢みることがあった。いくらかのスープの夢を。おまけにもらったスープの夢
を。
四月五日、〈歴史〉 の車輪が一回転した。
午後遅い時刻のことである。私たちは、全員がブロックのなかに立って、ひとりの親衛隊員か人員を数えに来るのを待っていた。その親衛隊員はなかなか来なかった。プーヘンヴァルトの住人の記憶するかぎり、これほどの遅刻はいままでに一度もなかった。なにごとかが起こったのに違いなかった。
二時間後、拡声器が収容所長の命令を発した。――ユダヤ人は全員、点呼広場に赴くべし。
終わりだ! ヒトラーはその約束を守ろうとしているのだ。
私たちのブロックの児童は広場に向かった。そのほかにどうしようもなかった。ブロックの
責任者グスタフは、彼の棍棒にものを言わせていた……。しかし、途中で何人かの囚人に出
会ったところ、彼らは私たちにこう耳打ちしたのである。
「きみたちのブロックに戻れ。ドイツ人はきみたちを銃殺しようとしている。きみたちのブ
ロックに戻って、動くんじゃないよ。」
私たちはブロックに戻った。道みち知ったところによると、収容所の抵抗組織は、ユダヤ人
を見殺しにせず、ユダヤ人の一掃を阻止しようと決定したのであった。
時間が遅かったし、混乱がはなはだしかったので――数えきれないほどのユダヤ人が非ユダ
ヤ人だと申し立てたのである――収容所長は総員点呼を翌日行なうことに決定した。その点呼
には全員が出頭せねばならぬこととなった。
点呼は行なわれた。収容所長はブーヘンヴァルト収容所を引き払うむね発表した。一〇棟ブ
ロックの囚人を、毎日一棟ブロックずつ撤退せしめるというのである。そのとき以後、もうパ
ンとスープとの配給はなくなった。そして撤退が始まった。毎日、数千名の囚人が収容所の門
を潜り、そしてもう二度と戻って来なかった。
四月十日、収容所にはまだ約二万名残っており、そのうち数百名が児童であった。私たち全員を一度に撤退させる決定が下された。夕方までにである。そのあと、彼らは収容所を爆破する気でいたのである。
そこで私たちは、広大な点呼広場に五列に並んで集結し、門が開かれるのを待ちうけていた。
とつぜん、サイレンか唸り始めた。警報。ブロックに戻らされた。その晩は、私たちを撤退させ るにしてはもう遅すぎた。撤退は翌日に延期された。
空腹が私たちをさいなんでいた。なにも食べるものがなくなってから、やがて六日になろうと
していた。なにか食べたとしても、いくらかの草や、料理場付近で見つけだした幾許かの馬鈴薯
の皮ばかりであった。
午前十時、親衛隊員が収容所一帯に散らばって、最後に残った生け贄たちを点呼広場へ狩り出
しにかかった。
そのとき、抵抗運動は行動開始を決定した。突如、武装者がいたるところから現われ出た。一
斉射撃。榴弾の炸裂。私たち児童は、ブロックの床に貼りついて伏せていた。
戦闘は長くは続かなかった。正午ごろにはすべてが平静に戻っていた。親衛隊員は逃亡し、そ
して抵抗派は収容所の支配権を握ったのであった。
午後六時ごろ、アメリカ軍部隊の先頭に立った戦車がブーヘンヴァルトの門前に姿を現わし
た。
画像:火葬場の中庭、死体が満載されたトレーラーの前に立つ米国兵と解放された
収監者。Photo: Ardean R. Miller, U.S. Signal Corps, April 18, 1945,
National Archives, Washington
自由人となって、私たちがまっさきにしたふるまいは、食糧にとびつくことであった。そのことしか考えてはいなかった。復讐のことも、両親のことも考えてはいなかった。ただパンのことばかり。
そして、腹がくちくなってからでさえ、だれひとり復讐のことを考える者はいなかった。翌
日、数人の若者がヴァイマールに駆けつけて、馬鈴薯と衣服とをかき集め、――そして売春婦
と寝た。しかし、復讐はといえば、影も形もなかった。
ブーヘンヴァルトが解放されて三日後、私は重病に陥った――中毒。私は病院に移されて、
二週間というもの生死のあいだを彷徨した。
ある日、私は全力をふりしぼったすえに起きあがることかできた。私は正面の壁にかかって
いる鏡に映った自分の姿を見たいと思った。私はゲットー以来、自分の顔を一度も見ていな
かったのである。
鏡の底から、ひとつの屍体が私を見つめていた。
私の目のなかのその屍体のまなざしは、そののち片時の間も私を離れることがない。
これがアーロルゼンという窓からのぞいたシュールレアルの世界である。
どのようにしたら、このようなシュールレアルの世界が実現するのか、それは皆さま各自考えていただくこととして、次にアーロルゼンに戦後生じた事態を観察していただくことにしよう。これは上と違い、現実にやさしい事態であったが、一歩間違えれば、シュールレアルの世界を越える壮絶な地獄絵が実現したかもしれなかった。
撮影:2008/06/14。ワイマールの街で。ゲーテの街だというのに、やはり何か暗い雰囲気がありますね。