2018/7/19
では、そもそも何故にベルギー軍がアーロルゼンに駐留することになったのか?
第二次大戦後、ドイツは分割された。
a イギリス b フランス c アメリカ d ソ連 e ポーランドに編入
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ドイツは第二次大戦後、分割統治された。その過程は簡略化すれば、次の通りである。
米・英・ソ三国首脳は、戦後のドイツをフランスを加えた4国で分割管理する基本方針を決定
1945年5月8日、ドイツの無条件降伏
1945年6月5日、四国宣言
アメリカ(アイゼンハウアー)、イギリス(モントゴメリー)、フランス(タッシニ)、ソ連
(ジューコフ)の四国司令官がベルリンで「四国宣言」(またはベルリン宣言)を発表し、具体的
なドイツ全域の分割区域と、ベルリンの分割管理が示された。
1945年8月2日、ポツダム協定
完全な非ナチ化、民主化がなされるまで4ヵ国による分割占領によって統治。
1948年3月17日、ブリュッセル条約
ドイツの再軍備に対する相互防衛を目的として、イギリス・フランス・オランダ・ベルギー・
ルクセンブルクがブリュッセルで条約を結んだ。
1949年4月4日、北大西洋条約機構(NATO)
ソ連を中心とする共産圏(東側諸国)に対抗するための西側陣営の多国間軍事同盟であり、
「アメリカを引き込み、ロシアを締め出し、ドイツを抑え込む」目的で、ブリュッセル条約
加盟国に加え、アメリカ・カナダ・デンマーク・アイスランド・イタリア・ポルトガル・
ノルウエーの各国が相互防衛を規定した。
注:現在でもドイツ内で英国軍戦車が公道を走っている実例を紹介する。
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2015.06.03 Wed posted at 17:55 JST
(CNN) ドイツ西部のリッペ郡(Kreis Lippe、旧英国支配地域)で、18歳の
女性の運転する乗用車が戦車との衝突事故を起こしていたことが3日までに分か
った。
乗用車はたまたま戦車の列と遭遇し、誤って突っ込んだとみられる。
戦車を操縦していたのは24歳の英国陸軍兵士の男性。ブレーキをかけたが間に
合わず、戦車は乗用車に乗り上げた。
女性は無事でけが人は出なかったもの、乗用車の前部がつぶされた。損害額は
1万2000ユーロ(約166万円)に上るとみられる。
これら諸条約の結果として
(引用:)
第二次大戦終戦後、連合国占領軍の一部として、ベルギー軍がドイツに配置された。ベルギー歩兵の3旅団―Ⅰ軍団が存在した。しばらくして、ベルギー軍は英国によってコントロールされる地域のなかにベルギーが自治権をもつ地域が与えられた。当該の地域は、ノース・ライン・ウエストファリアの中のアーヘン、ケルン、ゾースト、ジーゲン、カッセルの諸都市をカバーしていた。また、西ドイツが生まれた1949年まではボンにベルギー守備隊が居た。
ドイツにおけるベルギー軍(フランス語: Forces belges en Allemagne or FBA, オランダ語: Belgische strijdkrachten in Duitsland, BSD、略してFBA-BSD)は第二次大戦後、西ドイツにおけるベルギー占領軍の名前であった。1946年から2002年まで続いたのだが、軍団FBA-BSDは冷戦中、ワルシャワ条約国にたいして西ヨーロッパを防衛するNATO軍の一部をなした。最盛期には4万人の兵士と数千人の家族がケルンを中心とするベルギー領域に住んだ。
ベルギー軍駐屯地だが、アーヘン東郊のエッシュヴァイラーを中心として下図の白生地地区に分散したが、アーロルゼンには、1952年から1994年まで、ベルギーのドイツ駐留部隊である第1機甲偵察連隊が補給中隊および工兵中隊とともに、市内中心部に近いいわゆる「ベルギー兵舎」に駐屯していた。(注:機甲連隊とは、戦車部隊を中心に、戦車に随伴する自動車化・機械化された歩兵部隊)
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(引用:)
1950年代までに、西ドイツは冷戦の前線であった。西ドイツが1955年5月にNATOに参加するや、FBA-BSDの使命は「占領軍」であることから、「保護軍隊」であることに変化し、ワルシャワ条約国による攻撃に備えて、東ドイツとの国境からドイツ-ベルギー国境にかけて、ドイツ領域内に60km幅のベルト地帯の保護を目的とすることになった。これはNATOの北軍グループ(NORTHAG)に振り当てられた。最盛期には4万人のベルギー兵士がドイツ内に駐在し、総数7万人のベルギー人がこの地帯で生活した。1989年11月の冷戦末期(注:ベルリンの壁の崩壊の時期)には、2万4千人の兵士がFBA-BSDに居た。これらの従軍兵士の大部分は徴集兵であり、兵役義務の一部として配置された。
兵士およびその家族を合わせ、ベルギー市民が多数存在したせいで、この地帯はベルギーの「第十番目の州」と見られることもあった。ベルギーによる占領の過程で、何十万人ものベルギー人が家族とともにこの地域に住んだ。戦争勃発の事態に対して家族の引上げ計画も策定された。Viciという表題の新聞もこの軍隊のために発行された。
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60km幅のベルト地帯におけるNATOの軍事責任部隊割り当て。
BelgienⅠCorps(ベルギー第一軍団)と書かれているのが
ベルギーの割り当て地域。
アーロルゼンはこの地域の中央に位置している。
私が滞在したのは1976年からであるから、当時のアーロルゼンはベルギー軍の最前線駐留地であった。カッセルの東はハルツの山脈であるから、直接の接触はないものの、東ドイツから戦車部隊が侵入してくれば、戦闘地となることは必至であった。当時の話では、ワルシャワ条約軍が山地を避けて進軍するとすれば、戦車でフルダに攻め込んでくるという噂が専らであった。フルダ近辺はアメリカ軍が防衛することになっていたが、そこを起点としてルールの工業地帯を制圧するためには、敵軍はアーロルゼン周辺地域を制圧する必要があるものだから、アーロルゼンは枢要な防衛最前線と考えられていたのだ。
画像:ハルツのブロッケン山。
画像: 赤線がワルシャワ条約軍の想定侵入経路。
こういう訳で、私が西ドイツに駐在した1976年から1982年にかけては、東西間の冷戦の真最中であった。西ドイツと東ドイツの間には鉄のカーテン(緑色の国境線)が存在し、隔絶されていたので、私たちはハルツの山に登り、そこから人気のない東ドイツの村を眺めたものである。
このベルギー軍は結局どうなったのか?
冷戦の末期、ベルギー政府は2000年から2015年にかけての全ベルギー軍の再編成計画を発表した。ドイツ内のベルギー軍は「Reforbel」計画という名前の下での段階的引揚げ時期を開始した。最終のベルギー軍兵舎(Troisdorf-Spich)は2004年8月31日に閉鎖された。2005年までに国境地帯のVogelsang Campにいくらかの兵士が残留した。軍隊の撤退後もベルギー‐ドイツの450家族がドイツに残留することを選択した。
(引用:)
注: 1989年11月10日ベルリンの壁崩壊が始まった。冷戦はこの時点で終了した。
画像:ベルリンの壁崩壊
フレデリック・フォーサイス「騙し屋」篠原慎一訳 角川書店 1991 が1985年当時の東ドイツの状況を克明に描写している。この本によればハルツの山は、
一九五〇年代の半ば、英国政府は、ライン駐留軍を通して、小さいが美しい歴史的な町ゴスラーからほど遠くないハルツ山地にある、荒廃した古城を買い取った。ハルツ山地は、鬱蒼とした森林に蔽われた台地の一端にあり、東西両独の国境線は、その台地を縫って、あるときは丘陵の裾を横切り、あるときは累々と岩石の連なる峡谷にそって羊腸とのびている。そこは運を試そうとする東独からの逃亡者にとって格好の舞台でもあった。
レーヴェンシュタイン城は、表向きは軍楽隊がわざを磨くために使う合宿の場という口実で、イギリスの手で修理がくわえられ、この偽装を補完するために、軍楽隊の練習する音が絶えずテレコとアンプを使って流された。ところが、実際には、屋根の修復にことかけて、チェルトナムから派遣された技術者が精巧なアンテナを取り付け、年を経るにしたがって、より進んだ技術で性能の向上がはかられてきた。地元のドイツ人名士たちが、ときどき、そのために飛行機で送り込まれたバンドによる室内楽や軍楽のコソサートに招待されるが、レーヴェンシュタインの実態は、アルキメデスという暗号名をもつ、チェルトナムの出先なのである。その任務は、国境の向こう側でおこなわれる東ドイツやソビエトの無線交信を傍受することである。(P157)
また、東ドイツ側の国境検問所とか東ドイツ内での緊迫感がありありと記述されている。必読。