坐禅1

                                                                         2017/07/24

画像: 棟方志功 花深処無行跡 1962-75年頃 紙本着色


「花深処無行跡」とは棟方が好んで用いた言葉。この大自然の中で人間はとても

小さな存在であり、その足跡ははかなく消えてしまうという意味である。


(2014/04/02 サンリツ服部美術館の展示を撮影。以下同じ)

 私は、家族と離れて、夏は蓼科に住んでいる。私が47歳のころ造った山小屋で、温泉付きだし面積も140m2もあって、山小屋にしては豪邸である。小屋全体を断熱材でくるみ、灯油によるセントラル・ヒーティング装置がついているから、冬季でも暖かく過ごせる。


 建設当初は、家族や親戚が来て、スキーを楽しんだものだが、数年もすぎると、この山小屋に来るのは私一人になってしまった。


 私は家族が忙しくたちまわる東京の家を本拠としていたのだが、家族がぺちゃくちゃ喋りまくる騒がしさに辟易して、金曜日の昼からは蓼科に出かけ、日曜日の夜おそく東京に帰ることを常習とした。つまり、私は蓼科の家に一人で閉じこもることが好きなのであった。すなわち、孤独生活が好きで、孤独生活を必要としていたのだ。


 どうしてこうなったのだろうと考えてみると、どうやら私の幼児時代の体験にあるらしい。

 画像:棟方志功 女性像 制作年未詳 紙本木版墨摺


  のびのびと横たわる女性の前には壺。棟方は、版木の板が持つ性質を活かし、

 木の魂を彫り出そうとする気持ちから、自作の木版画を「板画」と称した。

 私は一歳数か月で生母が病死したため、物心つくかつかないかのときに独りぼっちになっていた。私の最初の記憶は、多分私が2歳ころのことだろう。朝5時頃に布団のなかで目を覚ましたのだが、一緒に添い寝をしているはずの「森山のおばば」は布団のなかにいなかった。生母がなくなってから、「森山のおばば」が二階の女中部屋で添い寝をしてくれていたのだが、彼女は早朝から朝食の準備でぬけだしていて、私の横にはいなかった。


 私はじっとして、時間が過ぎるのをただ待った。毎朝これが続いた。見回りにきてくれる人は誰もおらず、私は一人で寝床から抜け出すこともならず、ひたすら一人で時間が過ぎるのを待った。その間、なにを考えていたのだろう。今となってはなにも思い出せない。普通の親子ならば、こういう状況でもなにかしら会話があったに違いない。だが、私には誰も話す相手はいなかったのである。


 こうして私は「孤独」と友達になった。まわりに兄弟がいる場合でも私は一人殻に閉じこもり、孤独のなかで空想にふける子供となった。

 画像:棟方志功 昂祭双飛神(こうさいそうひしん)図 1973年 紙本着色


  画面から飛び出さんばかりの二人の女神。棟方は1956年のヴェネツィア・ビエンナーレで

 版画部門グランプリを受賞した《宇宙頌(うちゅうしょう)》にこのモチーフを選んで以降、

 肉筆画でも繰り返し描いた。