2018/08/24
清二が死ぬ二日前、3月19日、高知沖で、出水基地から出撃した特攻機「銀河」が、アメリカ海軍の航空母艦フランクリンにダイブして大損害を与えた。(戦況の詳細)
画像:銀河
では「銀河」とはなにか?
空技廠 銀河
初飛行:1942年6月
生産数:1,102機
大戦末期に登場した高速陸上爆撃機。
海軍の航空技術研究機関である空技廠で開発された機体で、最新技術が多く盛り込まれた。乗員を一式陸攻の7名から3名に減らすことで機体を細く仕上げ、一式陸攻と同等の航続力と爆装能力を持ちながら、零戦並の速度性能を発揮した。また防弾装備も日本軍機としてはかなり充実していた。雷撃の他、大型機ながら急降下爆撃も可能であった。
大戦後半の主力爆撃機として重点生産されたが、搭載した小型大馬力エンジン「誉」の不具合に苦しめられた。それでも終戦間際の劣勢の中、一定の戦果を挙げている。
夜間戦闘機型の極光などの派生型も存在する。
(引用:)
画像:炎上した船尾5インチ砲装甲塔の写真
本件に関するアメリカ側の説明は、(引用:)
フランクリンは訓練演習の後、1945年2月2日にブレマートンを出港、沖縄上陸支援のための日本本土攻略部隊、 58.2任務群に加わる。3月15日に同部隊に合流、三日後の3月18日に九州南部、鹿児島と出水に対する攻撃を始めた。この日、鹿屋基地に司令部を置いていた第五航空艦隊(司令長官:宇垣纏中将)は、その指揮下にある各航空隊(四式重爆撃機「飛龍」の雷撃機型装備の陸軍雷撃隊二個飛行戦隊を含む)を投入し、全力で第58任務部隊(高速空母機動部隊)に対する迎撃を開始する。
1945年3月19日
九州沖航空戦2日目の1945年3月19日の夜明け前、フランクリンは僚艦と共に高知県の海岸から50マイル沖の太平洋上海域を、多数の艦上機を載せて、神戸港攻撃に向けて巡航中であった。 朝の6時57分、フランクリンは第二次攻撃隊の出撃準備を開始させた。その直後の7時8分頃、突如、陸上爆撃機「銀河」と思われる日本海軍機一機が雲を抜け低空で接近し、緩降下爆撃で二発の徹甲爆弾を投下した。被害分析では投下された爆弾は250kg(または、500kgとする資料もある)だったとされる。当時この様子を見ていた空母ヨークタウンのジョン・ジグラーによると、フランクリンの乗員はこの機を友軍機と勘違いし、対空砲火を浴びせるのを怠り接近を許してしまったという。ヨークタウンは無線で機の国籍を確認するようフランクリンに要請したが、フランクリンは味方機と信じて疑わず、そうしているうちに爆弾が落ち、轟音がこだました。この日本海軍機は、爆弾を投下した直後にフランクリンの対空砲火(または、上空哨戒のF6Fヘルキャット戦闘機)によって撃墜され、空中で爆発・四散して破片をフランクリンの甲板上に撒き散らしたが、命中した二発の爆弾のうち、一発は飛行甲板中央部を貫通し格納庫で炸裂、二層及び三層で火災を引き起こし、戦闘司令所及び飛行司令所にダメージを与えた。もう一発は飛行甲板後部を貫通し格納庫で炸裂。第二層を突き破り、弾薬・火薬の引火を誘発した。また、飛行甲板上には爆弾やロケット弾、機銃弾や燃料を満載した多数の艦上機が並んで出撃待機していたため、次々と誘爆を引き起こした。
なお、フランクリンに爆弾二発を命中させた日本海軍機は、「銀河」であるとすれば、第五航空艦隊指揮下の第762海軍航空隊所属機、また、「彗星」(彗星三三型)であるとすれば、同じく第五航空艦隊指揮下の第701海軍航空隊所属機であったと推定されている。
フランクリンを攻撃したのは第762海軍航空隊の特攻作戦であった。(参照:第762海軍航空隊)
日本側の説明はこうだ。
特攻作戦(引用:)
昭和19年12月20日、桜花特攻部隊である第七二一海軍航空隊とペアで第十一航空戦隊を結成し、主力正規爆撃隊へと変容した。定数は陸偵24・戦闘48・陸爆48だが、フィリピン進出の際に出撃した戦闘701飛行隊が第七六一海軍航空隊に転出して以後、護衛戦闘機隊が七六二空に編入されることはなかった。
再編後は、香取飛行場に偵察11飛行隊・攻撃501飛行隊・陸軍第七飛行戦隊、豊橋飛行場に攻撃262飛行隊、鹿屋飛行場に第九八飛行戦隊を置いて訓練に当たった。
昭和20年2月上旬頃より、沖縄の地上戦への備えが始まった。七六二空は2月11日をもって第五航空艦隊に転籍し、正規爆撃の一翼を担うことになった。その間、攻撃第406飛行隊が新たに七六二空に編入された。
・・・・
3月19日 出水基地より攻406出撃、1機が急降下爆撃で空母フランクリンを大破させる。
と書かれているので、航空母艦フランクリンを大破させたのは、第七六二海軍航空隊攻撃406飛行隊の特攻機「銀河」であることが推定できる。上記記事「特攻作戦」ではこの「銀河」は胴体下に「桜花」を吊り下げていたように読み取れるが、記述が曖昧で確言できない。また、上述記事から読み取れるように、護衛戦闘機なしでの出撃であったと判断される。
ではフランクリンはその後どうなったのか。
フランクリンは浸水し、右舷に13°傾斜した。また消火活動の放水により艦尾が沈下した。無線通信が不能となり、火災によって高熱が発生し、艦首を除く上部構造物は全損に近い損害を受けた。乗組員の多くが攻撃及びその後の火災で死傷したが、数百名の士官と兵員は艦を救おうと必死の作業を行った。724名が死亡し265名が負傷したが、生存者達の献身的な作業がなければこの数はもっと増加していたと考えられる。従軍神父のジョセフ・T・オハラハン大佐は消防及び救助作業を指揮し、誘爆の危険があった弾薬を処理した。この功績で後に名誉勲章を受章している。またドナルド・A・ゲイリー大尉は300名が閉じこめられたコンパートメントを発見し、出口から彼らを救うための作業を繰り返した。続いてゲイリーは格納庫デッキで消火作業を行い、艦の出力を上げるために第3ボイラー室に入って危険な作業に勇敢に立ち向かった。軽巡洋艦サンタフェ(USS Santa Fe, CL-60)はフランクリンの乗員を救助するため支援を行った。4つの機関室には浸水や火災はなかった。
(引用:)
画像:1945年4月26日、ニューヨークのブルックリン海軍造船所へ向かうフランクリン
航空母艦フランクリンはニューヨークに引き返し、修理された。