2018/08/28
清二兄については、私が小さい頃に亡くなったので、ここまで書いてきても、彼の心の中身までは伺い知ることはとてもできそうにもない。
有体に言えば、彼は金沢高工の出身で、その当時の父は裕福であったから、次に期待される過程は京都大学であったのだろう。頭が良かったのだ。
不思議なことに私の兄弟は男女合わせて9人もいるのだが、この9人のなかで、頭がいいのは三人で、この三人は小さい頃から「ちゃん」付けで呼ばれていた。冨ちゃん、清ちゃん・・・などと呼ばれていたのだ。
清ちゃんはその当時は金沢市では最高の高校に在学し、次はどこかの大学と予定されており、学校ではバスケットボールの花形選手で、しかも美男。これでもてないわけがなかった。女学生からはキャーキャー言われていた人物なのだ。
それがまたどうして特攻隊に志願したのだろう。3月10日は東京で10万人も空襲で死んだというのに、その前年の11月、総数僅か2千人弱の自殺目的の特攻隊などに志願したのだろう。
私はまだ彼の心の中を見通せないでもがいている。
私が暑いサウジアラビアのテニスコートで全力を尽くして汗を絞り出して心身の維持を計ったように、彼は青春時代バスケットボールで汗を絞りつくした。その後で、将来の目標を探したが、なにしろ戦争中で適当な目標が見つからなかった。全力を傾注できる技能練磨という舞台は特攻隊にのみ与えられていたのかもしれない。
一度操縦を誤れば、即墜落する危険が待ち構える場所で、最高度の技能に習熟することをただ一つ与えられていた場所が特攻隊であったのかもしれない。事実日本国は、その当時日本国が持てる最高の教官、最高の機材をこの特攻隊に惜しみもなく与えていた。この最高の舞台で自分の技能を習熟させることこそ、その当時与えられていた最高のチャンスだったと思われる。そして、その対価が「死」であったことには目をつぶったのかもしれない。
しかし、よくわからない。納得がいかない。あのとびきり頭の良い清二になにがおこったのか。まだ引っかかる。
それは何か?
皆が皆、同じように考えて出発するのだ。鎮魂の旅に。
私もそうしよう。すこし涼しくなったら、生きているうちに、清二の魂を鎮めるために、鎮魂の旅に出発しよう。鹿屋と出水へと向かおう。その辺りを歩き回るうちに、少しは私の気持ちも落ち着いてくれることを期待しよう。