この事故が起こったとき、私は34歳であった。
私は東京で商社の化学品部輸出課に所属していて、石油化学品の輸出・輸入・三国間取引をおこなっており、担当品目は、繊維原料であったから、ニプロ社が扱っていたシクロヘキサンを含め、カプロラクタムももちろん私の担当品目であった。
事故の第一報が伝えられたのは6月2日日曜日の朝のテレビ・ニュースであった。
事故のニュースが私に予告してくれたことは、世界中でナイロンが不足する、カプロラクタムが値上がりする、という相場師の予想であって、この予想に従って私たちは即刻動かなければならならなかった。しかし、商社マンというのは現物を持たない悲しさで、ニュースに応じて即マーケットに出ることができず、また私の所属する会社の社則で空売りは禁則であったから、私にできることはたった一つに絞られていた。
画像:カプロラクタム
翌日月曜日、会社へ出かけるなり、私は私の所属課が所有していたカプロラクタム2,000tをDSM社に売った。火事場泥棒の汚名を後々着ることがないように、値段は事故前のカプロラクタム相場・トンあたり1,000ドルにした。実物は市場ではあまり評価されていないロシア産カプロラクタムであったから、1,000ドルで売れれば「御」の字だった。DSM社は私の見込み通り、直ちにこの2,000トンを買ってくれた。事故直後だから、今後の市場相場の急騰を見越して、1,500ドルの値付けでもおかしくない状況だったのだが、会社の品格もあることから、じっとこらえて値決めをしたのだ。
これ以外に売るべき品物はなかった。
後日談だが、DSM社はやはりロシア産カプロラクタムに品質上の疑念をもった。技術者が二人日本までやってきて、黒崎の三菱化成の研究所の施設を借りて分析調査を行った。分析結果は契約上のスペック通りであったから、契約違反問題は生じなかった。