黒田家譜巻之十二(5)

2020/05/16

 

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て勝利を得給ふ吉例あり。是に陣をとり給へとす丶めければ、義統同心して、いそぎ立石に取上つて、是を陣所に定らる。木付の城へよせける大友の兵共も、如水の攻來り給ふ由を聞、木付の圍を解て、義統と一所にならんと、立石をさして引退ける。是に依て木付の後攻のために、如水より遣されたる兵共も、戰ふべう敵なくして、翌十三日大友義統を攻んため、石垣原に馳向ふ。石垣原は木付より六里西南にあり。此原立石の前北の方半里に近し。此所を石垣原と名付し事、石垣村の西にある故なり。東西一里、西には鶴見嶽、鶴見山まで高山相見へり。石垣村は、北石垣中石垣、南石垣とて、三村あり。原の東にありて海に近し。南北二十餘町ありて廣き原なり。此原に石多き故、農人等畠を作らんため、石を多く一所にかさね集めて、石垣を長く所々につけり。後に石垣村と名づく。石垣村里人は鶴見原といふ。鶴見が嶽の下、鶴見村の南にあり。凡此原南は、立石と別府に屬し、北は鶴見村に屬し、東は石垣村に屬し、西は鶴見嶽なり。木付の城より、松井佐渡、有吉四郎右衛門等、二百人ばかり引具して、此方の勢に馳加はる。大友方へ、此方の軍兵寄來ると聞へしかば、吉弘加兵衛統幸(むねゆき)(*)を大將として、竹田津志摩、小田原又左衛門、深栖(ふかす)七右御門、木部山城、大神(おほが)賢助、清田民部

 

 

(*)吉弘加兵衛統幸

 

 

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などいふ者、立石を打立て、此方へ寄來り、石垣原にて對陣す。身方の先陣、時枝平太夫、母里與三兵衛かけ合せ戰ひしが、敵わざと引退て身方を引よせける。是は孫子が兵法に、半進半退者誘也(なかばすすみなかばしりぞくものはみちびく)といへる意なり。母里時枝敵の僞りて逃るをばしらずして、追かけ立石の方へゆく所に、小川の有ける河原を隔て、敵備を立直し取て返す。其時敵身方たがひににらみ合て立留る。敵河原の西に、左右と中と三備に立たり。暫有て左右の備皆中備に加り、三備一になりぬ。いか様敵の備立の様、か丶りて軍すべき物色也と見る處に、案の如く敵一度に咄と突か丶る。母里與三兵衛、時枝平太夫も、しばし支へて戰ひけるが、吉弘が猛兵に押立られ、力及ばず北をさして引退く。敵勝に乗て石垣原の北の末なる野山の間、犬の馬場今はいなふか馬場といふと云所まで追討にする程に、身方に討る丶者多かりけり。時枝平太夫は人數をあつめ、眞丸(まんまる)に成て引けるが、所々にて踏とまり、盛返(もりかへ)し敵を

 

 

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防ぎてぞ引退ける。迫來る敵の中に、朱柄(しゅえ)の大身の鎗を持たる者一人、高名を心がけたるとおぼしくて、諸人にはなれてかけ来り、身方を討んと近付ける。時枝平太夫が手に在し、時枝作内といふ者返し合せ、其敵を突きふせて首を取。作内子孫秋月にあり。此時身方の兵討るる者八十人、敵は十騎討れける。

 

二陣久野次左衛門、曽我部五右衛門、其外如水より相添られし士某と、同じく掛りけるが、母里時枝が東の方をさして引退くを見て、守返(もりかへ)させんとて、馬を乗よせ、返せ返せと制しけれども、引立たる勢なれば、先陣は終に返さず。次左衛門は敵の二陣に向ひける。敵の二陣は宗像掃部を大將として、五百許にて馳か丶る。身方負色に見えける所に、久野下知しけるは、先手敗軍せし故、敵の勇気出來て勝にのれり。爰に烈しく敵を防がずば、敵いよいよ気に乗て、身方の大事とならん。只今必死の戰いして敵を防ぐべし。義理をしる者はつヾけやとて、

 

 

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士卒に先立てかけ入ける。曽我部五右衛門は、數度軍に馴たる功者なる故、如水より、次左衛門若式者なれば心元なく思ひ、後見のため添られけるが、次左衛門がか丶るを見て、競てか丶る敵に駈入事、あやうしとて制しけれども、次左衛門聞もいれず、身方の敗軍を見ながら、いつをか期すべき。五右衛門御邊はこ丶を退て、如水へ此由被申候へとて、猶敵陣へ馳か丶り、馬よりおりたち、小膝を折て鎗をかまへ、敵を待かけ、向ふてか丶る者を討取、數人に手を負せ、勇気を振ふ事甚盛なり。されども敵大勢なれば叶はずして、次左衛門は終に討れにける。生年十九歳とぞ聞へし。次左衛門が死したりし所は、鶴見原の内の内が堀より、四丁ばかり南、立石の方なり。 次左衛門が家人、光留立右衛円二十八歳、麻田甚内二十六歳山本勝蔵二十五歳、稗田九蔵、下田作右衛門、久保庄助二十一歳、等も、命を輕んじ義を重んじて、主人の前後左右に在て戰ひけるが、六人の者共一所にて、皆討たれにける。曽我部五右衛門も久野を見捨がたくして續て

 

 

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か丶り、久野と一所にて励み戰ひけるが、終に討れにけり。久野次左衛門は勇気有し故、若輩なれども一方の將とせられける。父四兵衛は朝鮮にて死す。次左衛門は父死して後朝鮮へ渡り、いまだ幼年なれども父の家をつがしめ、家人を卒して、陣役をつとめしめらる。朝鮮にて或時野村隼人と両人唐人を追いかけけるが、次左衛門は落馬して追つかず。隼人追付て唐人を討取ける。此時隼人は敵をうち次左衛門は、手を空しくしたり。其遺恨にて、常に隼人と武勇を争ひしが、此度も隼人にまさらんと思う下心有て、かくの如く諸人に越て働きけるとぞ聞へし。母里太兵衛が婿なりける。如水今度の次左衛門が粉骨を感じ給ひ、四兵衛後家に感書を賜り、豊前下毛郡の内二百町の地與へ給ける。曽我部五右衛門は黒川美濃守が嫡子なり。父美濃守は豫州松山の城主たりしが、秀吉公にほろぼされ浪人となり、五右衛門廿三歳の時始て孝高に仕え、知行二千石を賜る。黒の字をさけて、母方の姓曽我部を用ゆ。今年三十八歳、天性武勇なりしとかや。細川家臣松井有吉は、石垣原の北、實相寺(じつさうじ)山の南なる、小山の上に陣取て居たりしが.久野曽我部の討れしを見て、相したがふ兵共を引つれか丶りける。大友勢はげしくふせぎ戰ふ.松井有吉もしばしいさみ戰ひ高名(こうみょう(*)せしが、手負死人數多出來けれぱ、先人馬の息をつかせんと、本の陣へぞ引上りける.松井有吉が此時の働を如水感じ給ける。其後吉弘加兵衛は、士卒のつかれたるをやすめ、敵の方を見やりて、今やよせ來ると待居たり。義統より吉弘が方へ、近習の士を使として遣さ

 

 

(*)高名(こうみょう):戦場において忠功をつくし武名をはせること。功名ともいう。

 

 

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れ、戰ひつかれたる勢をもつて、敵の新手にかけ合せ戰ふ事危し。先兵を引とるべき由、いひつかはされける。吉弘聞て仰の趣尤に覺候。然ども今日討死にきはめ候上は、引取べきにあらずとぞ申ける。其後使を兩人遣され、是非引取べき由申遣されけれども、吉弘同心せず。義統此由を聞て、然らぱ吉弘うたすなとて、兵共を大勢指遣さる。

 

 身方の三陣は、井上九郎右衛門、野村市右衛門、後藤太郎助なり。此三人は石垣原の北、實相(じつさう)寺山の西なる、加來殿山(かくどのやま)といヘる山の上に、陣を取て居たり。此所は石垣原よりはるか後也。九郎右衛門はよくはたらかんと思ひ、わざと佩楯(はいだて)(*)等をとりのけ、いかにも輕く出立、唐冠(たうかふり(**)の冑(かぶと)を着、鳥毛の様の指物をさしけるが、人數備へ置し所は、加來殿山の上北の方、少ひき丶所にて、先手の戰場見えざれば、南の方の高き所にみづから行て、先手の戰の形勢(ありさま)を見計べし。諸卒一人もうごかず、爰にて我々下知を待べしと云捨

  

(*)佩楯

 

画像

 

 (**)唐冠

 

 

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て、従者少々召つれ、一町ばかり行て、高き所よりつくづくと見れぱ、先手打まけ、二陣も破れ、松井有吉も、本の陣所へ引上りける。敵共は芝原に座して、扇をつかひ休み居たり。井上是を見てよき時節ぞと思ひ、再拝(さいはい)(*)を以、身方の勢を招きければ、手勢並其餘の兵共ことごとく馳來る。山の南の高き所より、石垣原をうちのぞめば、敵をば目の前に見おろしたり。井上野村下知しけるは、敵は皆徒立(かちだち)也、馬のかけ場よければ、常の敵ならぱ、馬にてかけちらさんことたやすかるべけれども、此敵は今日を討死にきはめ、殊に物なれたる老切の者共なれば、手先にてたやすくあひしらはん事悪かるべし。皆々馬よりおりたち、鎗のうのくび(**)のをる丶ほど、突合はずば、勝利を得がたかるべしといひければ、騎馬の兵多くは馬よりおり立たり。野村市右衛門は、井上が左の方に陣を備へけるが、先年朝鮮にて、左の膝に手を負しより、行歩參不自由なる故馬上に立ておりた丶ず。井上

  

 

(*)再拝(さいはい):【采配】…日本の指揮用具の一つ。再拝,采幣,采牌などとも書くが,いずれもあて字である。古く放鷹(ほうよう)にあたってタカの指揮に用いる切り裂き紙をたばねた竿(さお)を〈ざい〉といい,また犬追物(いぬおうもの)の合図にも神供の幣を用いて〈再拝〉といった。

 

(**)鵜の首:鵜の首造の刀。(説明

 

 

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は敵間(あひ)近くなりし時、小手の指懸(ゆびかけ)(*)のこはぜを左右ともにはづさせ、十文字の鎗おつとり、いさみ進んだる形勢(ありさま)を見て、士卒どもきびしき合戰有べしと心得て勇みける。井上野村同時に兵を進めけるに、敵はしづまり返て居たりしが、間近くなりければ、一度にさつと立向ふ。此石垣原は、方一里に近き平原の地にて、高下なく樹木なく、草たち淺き所なれば、敵身方の働かくる丶所もなく、目の前に見へて、いと分明なる野軍なり。初は敵身方しばし弓鐵砲を打合しが、頓(とみ)て(**)たがひに鎗を揃へて突合たヽき合ける。敵は北に向ひ、味方は南にひかひて戰ひけるに、其内より群をはなれて進み出る者も、いまだなかりける。こ丶に井上が手に屬したる浪人、大野久彌といふ者、只一人敵の中へかけ入ける。敵の物頭深栖(ふかす)七右衛門といふ者、茜(あかね)の母衣(***)かけたりしが、久彌と槍を合せける。勝負やおそかりけん、たがひに太刀を抜て切合しが、頓て引組て七右衛門を取ておさへ首を

 

 

(*)指懸(ゆびかけ):「ゆがけ」のことか?

 

 

(**)頓(とみ)て:その場にとどまり

 

 (***)ほろ