2020/05/17
(173a1)
とる。久彌が兄大野勘右衛門は、久彌が進むを見て、是も敵の物頭(*)小田原又左衛門といひし武者と渡りああひ、しばし太刀打して引組、又左衛門を取ておさへ首をとる。大野は兄弟共に諸人にすぐれ先駆して、よき敵を討取高名なしたりければ、如水より感書を賜り、其後禄を與へらる。久彌後に久太夫と號す。大友が先手の兵いさみ進みけるを、見方つよく防ぎて突崩す。逃るを追はんとしけるを、井上野村思ひけるは、只今敗軍せし敵の先勢は、此比俄に馳集りたる葉武者共なり。究竟(くつきやう)の兵は跡にひかへ、今日を限に必死に極め、最後の一戦と思ひ定め、備を亂さずしづまり返て居ると見えたり。此葉武者共をうたんとて、身方の備を崩し、足を亂してかヽらば、彼跡にひかへたる、荒手の兵にもまれ敗軍すべし。此方よりはやらずとも、今日軍をせではをらぬ敵なり。一人も抜きんでて追かくべからずと下知し、かたく制しける。吉弘加兵衛是を見て、敵輕輕しく足を亂し追かけば、近々と引付討取べしと思ひしに、扨も物なれたる者共かな。此上は今日討死
(*)物頭:戦国・江戸時代の武家の職名あるいは格式の一つ。一般に歩兵の足軽,同心などからなる槍(長柄(ながえ))組,弓組,鉄砲組などの頭(足軽大将)をいう。
ぞと究め、いざや懸らんとて、二千人閑々(しづしづ)とあゆみよる。井上是を見て、相か丶りにせずしづまりて居たり。敵進み來りしかば、井上野村爰を専途(せんど)と防ぎ戰ふ。されども吉弘いさみ戰へば、敵つよくして、井上が一手ばかりにては猶あやうかりける。野村市右衛門は、十六歳より度々武勇の誉をとり、今年十九歳よのつねの老功の者より、猶軍に訓たる武者なりしかば、先ほどの合戦して後、左の方に備へてしばらく時節を待居たりしが、是を見てよき時分と思ひ、我が手の備を引丸め、敵の右の方へ横合にか丶りける。後藤太郎助も、おなじく後よりか丶りければ、身方一度に競(きそ)ひつ丶、えいえい聲を出して突か丶り、火を散してぞ戦ひける。敵の兵今日を最後の合戦と思ひ定めけるが、突崩されてさつとひけども、又か丶りて戰ひける。井上野村は敵ひけども追かけず、本の所に折敷(をりしき)、敵又か丶れぱ立あがりて戰ひ、幾度もかくの如くしける。爰に吉弘加兵衛は、世に聞へし大剛
の者、殊に抜群にたけ高く大力なりしが、朱柄の大鎗を取のべ、むかふ敵を横打に打倒し、あたりを拂て見へたりけるが、井上九郎右衛門を目がけ、鎗を打振て眞一文字にか丶り、井上殿が珍しく候。吉弘加兵衛にて候。尋常に参會すべしとて、しづしづと近付ける。井上是をみて、能敵と思ひ十文字の鎗を以むかふ。此所石垣原の南北の半より四丁ばかり南、立石の方によりて、野中に忠内が堀とて、わざとほりたる如くなるから堀あり、東西に長き事百間餘、横が三間ばかり有て、南岸は高さ一間ばかり有。下の方にほりの少まがりたる所あり。其所に吉弘は南の岸の上にたち、井上は北の岸の上に立てあひ向う。兩人は、先年よりしたしく馴近付たる事なれば、久しくて參り會いたりとて、しばし物語しけるが、いさや花やかに戰て、勝負を決せんと互にいひ合わせて、面もふらず戰ひける。九郎右衛門は勝れたる勇士なりしが、たけひきく力もおとりたり。吉弘は聞ゆる大
(173b2)
力にて、や丶もすれば井上はた丶き付られ、あやうく見へし處に、九郎右衛門が運やつよかりけん、吉弘かつきける鎗、九郎右衛門が鎧の胸板(むないた)に幾度もあたりて、鎧の毛處々きるるばかりなれども、皆鎧の上なれば通らず、井上が鎗、吉弘が内冑に突入けるに、十文字の横手にて左の頬先をした丶かにかくる。加兵衛は冑の緒きれ、かぶと顏にか丶りて目を覆へば、鎗をもつてみだりに打はらひ、後へ退ける。吉弘が鎗を引とる時、左の腋の下具足のはづれに、襯(はだぎ)の青く見へけるを、井上よき隙間よとおもひ、鎗にて突しかば、あやまたず左の腋の下に深く突入たり。古弘心はたけしといへども、今朝よりの合戦につよく働き、すべて敵を討取る事二十三人なりしかば、戰つかれ、其上両所深手を負、殊に腋の下の疵いた手なれば、忽によはりて戰ふ事あたはず。家人の肩にか丶りて、引退ける處に、井上見方に首とれと下知して、追かけさせければ、後藤太郎助家人、小栗次右衛門
といふ者、何の苦勞もなく突倒して首を取(*)。九郎右衛門は、世に聞へたる大剛の兵を討て、比類なき高名をぞしたりける。吉弘が手に屬せし家人、昔の郎等數多有しが、主人の討れたるを見て、其場にて一足もひかず皆討死す。敵の大將既にうたれ、身方いよいよ勝に乘ていさみ戰ひければ、大友の勢防ぎかねて、終に一度に敗北す。其時九郎右衛門、市右衛門、再拝をふり、備を崩し追かけ、敵を多く討取り、わづかに殘る敵をば、立石の在家へ追入て引取ける。今日の戰に敵を討取事五百餘人、此内胄付の首百六十七、就中姓名のしれたる兵には、吉弘加兵衛、宗像掃部、都甲(とがふ)兵部、竹田津志摩入道一卜、木都玄琢、吉良傳右衛門、小田原又左衛門、柴田次左衛門、摂津(つの)角右衛門、豊饒(ぶねう)弾正、山下石庵、深栖(ふかず)七右衛門、秋岡式部、永富與右衛門、同九郎、原田舎人、橋本彌平、安藤主膳、爪畑左京、大神賢介、安部左京等なり。身方にも士六十三人雑兵八十餘人討死しける。手負も
(*)吉弘加兵衛の首を取。
画像:べっぷの文化財No.44 別府市教育委員会/別府市文化財保護審議会 平成26年、P14
「其後其里人石垣原の東なる、小石垣村と南石垣村の間、大屋の西のかたはらに、加兵衛の墓をつき、石碑をたて、其姓名をしるせり。吉弘は義あり勇有て、名高き士なる故、志ある士は馬より下り禮をなして通る。大剛の武士なればとて、近里の民の瘧を煩ふ者、此墓にいのれば、必おつるよしいひ傳へたり。」((175b1)を見よ)
(174a2)
多かりけり。手柄せし者多き中にも、荒巻軍兵衛といふ者は、敵の物頭竹田津志摩入道一卜と槍を合せ、即時に討取高名しける。岸本五郎兵衛も敵数多にかけ合せ、散々に戰ひしが、向ふ敵を打はらひ、敵一人討取ける。五郎兵衛此時既に隠居せしかども、九郎右衛門が手に付て、此度の軍にしたがひ、すぐれたる働をしたりければ、如水より感書を賜り、褒美として沓懸村の内にて領地五百石與へられける。五郎兵衛は既に天正十九年に長政より四百石の地を與へられたる者なり。長政筑前入國の後、當國にて領地を與へ給う、黒田又左衛門が先祖なり。又内の士には、井上九郎右衛門手に大野久彌、同勘右衛門、堀尾久左衛門、富田仁左衛門、原田市藏、波賀新兵衛、吉村孫七郎、野村市右衛門手には大鹽喜平次、篠倉喜兵衛、酒井彌次郎、爪田清右衛門、林四郎兵衛、清田何右衛門、志戸地喜右衛門、後藤太郎助内には小栗次右衛門、二宮右馬助、時枝平太夫が家人時枝作内など、皆分捕をぞしたりける。以上の数人、多くは如水より感書を下され、知行をも宛行はる。或はもとの主人の輿力とせられ、或は後に直參の士となる。
吉弘加兵衛先祖は、大友の一族にて、代々先手の士頭なり。祖父も父も、皆吉弘加兵衛といふ。祖父
は日向にて討死す、父は後に宗甚と號す、是筑前國御笠郡岩屋の城主高橋紹運の兄なれば、紹運の爲今の加兵衛は甥なり。立花左近將監統虎は、紹運の子なれば、統虎と加兵衛は父方のいとこなり。先年義統豊後國を召上られて後、加兵衛も浪人となりしが、如水是を豊前に招きよせ、井上九郎右衛門に預けおかれければ、井上が領地に引こみ、しばらく逗留しけり。其後立花左近將監の招に依て、筑後の柳川へゆき、浪人の間の扶助として、知行二千石賜り、數年居住したりける。先年義統豊後を秀吉公より召上られし時、其子義延は家康公預り置給ひ、江戸の牛籠といふ所に居住せられしが、吉弘此亂出來たる事を聞て、つらつら世の成り行を思ふに、とかく家康公の御利運になるべき事必定なり。幸義延關東に居給ふなれば、今後關東へ行て義延をもり立、再大友の家を興さんと思ひ、立花左近將監に暇を乞ければ、左近聞て其方の志尤の義なりとて、暇を遣し其上道
中の用脚(ようきゃく)として、黄金幾許與へらる。吉弘是を感じて申様、我等數年の間御扶養を蒙り、御恩を報ぜずして、只今御暇を乞申事、不義の至、本意に背候處、御暇たまはり、其上金子まで多く被下候事、誠に御めぐみ忘れがたくこそ候へ、是は我が先祖より傳はりたる太刀にて候。今度上方において、我等いかにも成果候はヾ、記念(かたみ)に御覧候へとて、忠光の刀(*)をまゐらせければ、左近涙を流し、義延をもり立んため關東へ參らる丶事感入候。我等も其方の事をば、左右の手の如く、たのもしくは思へども、義に依ては命をもをしまれぬ事なれば、とヾめ度は思へども、力及ばざる事なり。又其方家に傳はる太刀をかたみに賜はる由、尤感悦申候。此脇指も、我常に身をはなさずして帯たる間、かたみに遺し候とて、腰にさしたる脇指を抜きて賜りける。加兵衛是を請取て、しばしは顔をもあげず泣居たりしが、暇乞して上りける。吉弘大坂に着て、義統中國より上り、泉州境に
(*)忠光の刀:長船(おさふね)忠光は勝光・宗光・清光らと並び「末備前」と呼称される室町後期の備前鍛冶を代表する大名跡。忠光は初代を正応頃(1288~93)と伝え、続いては応永・文明(1394~1486)の年紀作がある。忠光一門の多くの入念作は『備州長船忠光』と銘を切り、『備前国住長船忠光』とは切付けてはいないことが特徴。(説明)