2020/12/15
におよび候共、長政よりの下知を承らざる内は、城をすてのき申儀成がたく候。其上此地は要害よく候へば、敵何十萬寄來り候共、たやすく破らるゝ事はあるべからず。兩方の山嶮岨にして、敵まはるべき道なし。兵糧(*)玉藥も澤山に有之候へば、先しばらく是に御休み候へかしと申けれども、是は城内せばければ籠城なりがたしとて、龍泉をも退き、都をさしてひかれける。長政秀包も小西を救ひたく思はれけれども、纔なる兵を以、二十萬の敵を追拂ひ、小西を救はん亊、智勇の及ぶ限にあらず。若此勢を彼大軍に後攻せば、打まけん事必定なり。然る時は敵勝に乘て身方のよはり甚しからん。只しばらく都より諸將大勢にて助け來るを待うけ、一になり身命を捨て、忽に大軍を破り、小西を救はんにはしかじと相談して、王城の諸勢をまたれける。王城にも秀家並三奉行をはじめ、諸將寄合て助の兵をつかはすべきかと相談せらる。されども五日路隔りて、大河中にあれ
注
(*)兵糧 糧は原文では米扁に良。Microsoft辞書にはこの漢字は見当たらない。
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ば、會議のみにて延引す。
朝鮮にて大明をさして江南といふ事、江とは大河の亊なり。大明は朝鮮と大明のさかひにある鴨緑江(*)といふ大河の南にある故に、朝鮮にては大明をして江南といふ。又大明の兵を南兵ともいふ。江南をかぐなみとよむは、朝鮮の音なり。
小西が籠りし平壌城の外二里ばかりに、牡丹臺(ぼたんだい)とて出城あり。爰にも小西兵をこめ置けるが、唐人に是を奪とられ、平壌の本城ばかりに成ぬ。大明の大勢小西が城を収圍み攻けるが、大砲を多く放ち、その聲山岳にひゞき、異國の路程數十里に聞ゆ。又火箭を透間もなく射かけ、烟氣天をおほへり。火箭城中に入て處々燒失しければ、敵其勢に乘て大勢城中に攻上りける。城中よりも、矢狭間より鐡砲をしげく打かけ、劒戟をつらねて防ぎけるが、敵はげしく攻戰ひければ、敵身方たがひに討る丶者多し。城中既にあやうく見えしかば、李如松が謀にて、後の圍
注
(*)鴨緑江
画像は『豊臣秀吉の朝鮮侵略』北島万次 吉川弘文館 1995 P38
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をときて、迯道(*1)をあけてぞ攻たりける、是は城中の兵必死にきはめなば、大明人多く討るべしとおもひ、かくの如くせしなるべし。小西勇猛にして能防ぎ戰ふといへども、大敵に攻られ、城中の兵多くうたれ、初は自他の兵一萬五千人にて寵城すと聞えしが、殘兵僅に五千人ばかりには過ざりける。此勢にて二十萬の大敵を防ぐべきやうなし(*2)(*3)。かくては明日必城を乘取べし。爰にてむなしく敵に討れんよりは、いざさらば一先落て、後陣の身方と一所になりて防ぎ戦ふべし。十四里あなたなる大友が城まで引限き、彼勢と一に成て籠城せば、しばらく敵を防ぐもたやすかるべしとて、敵のかこまざる方より、正月八日夜半ばかりに、ひそかに城を出、前後に鐵砲騎馬の兵を立、中に小荷駄僕夫を包み、引かたまりて退きける(*4)。大明の兵、明日卯の則に平壌の城へ攻入けるに、一人も守る兵なく、皆落失てあき城なれば、急ぎ迯るをおふべしと、手分をして追手
注
(*2)防ぐべきやうなし
平壌城での戦い
画像:『豊臣秀吉の朝鮮侵略』北島万次 吉川弘文館 1995 P124
(*3)この場面を『懲毖録』により、敵側からの描写を読もう。
翌日の朝、前進して平壌を包囲し、普通門(ボトン)、七星門(チルソン)を攻めた。賊は、城の上に登り、紅白の旗を立て連ねて防戦した。明国兵は、大砲と火箭でこれを攻め、その砲声は地を震わせ、数十里にわたる山岳がみな、ゆれ動いた。火箭が空いっぱいに飛びかうさまは、布を織るかのようであった。煙が天を蔽い、箭が城中に入って処々に火が起こり、林の木をみな焚いてしまった。
駱尚志、呉惟忠らが、親兵を率い、蟻が取り付くようにして城壁を登り、前の者が墜ちても後の者が昇り、退く者はI人もいなかった。賊の刀や槊(ほこ)が下に向けて突き出され。城壁はまるで針鼠の毛のようであったが、明国兵はますます力戦した。賊はついに支えることができず、後退して内城に逃げ込んだ。斬り殺し、焼き殺した者が甚だ多かった。
明国兵は城に入って、内城を攻めた。賊は城の上に土壁を作り、多くの穴を穿って、遠くから見ると蜂の巣のようであったが、その穴の中から銃弾を乱射した。明国兵が多数傷ついた。提督は、追い詰られた賊どもが死にものぐるいになることを慮り、軍を城外に撤収して逃走路を開いた。その夜、賊は氷りついた〔大同〕江の上を越えて遁走した。
引用:『懲毖録』朴鐘鳴 平凡社 1979 P178
(*4)平壌城を退去。『豊臣秀吉の朝鮮侵略』P126は次のように述べる。
ここで李如松はふたたび策略を用いる。兵を一旦退かせ、通事張大膳(チャンデソン)をつうじて小西行長に「我兵力を以てせば、以て一挙殲滅するに足らん、しかるに尽く人命を殺すに忍びず、姑(しばら)く退舎を為し、弥の生路を開かん、速かに諸将を領して、轅門(王者の陣営、具体的には李如松の陣営)へ来詣して我が分付(命令)を聴け」と諭した。行長は「俺等、退軍を情願(真心からの願い)す。後面を欄截(らんせつ、遮り止めること)すること無からんことを請う」と、退路の保障を求めた。李如松はこれを承諾し、平安兵使李鎰に中和への道筋に配置してあった朝鮮の伏兵を撤回させた。その夜半、小西行長・景轍玄蘇・宗義智等は大同江を渡って平壌を脱出した(「朝鮮王朝宜祖実録」宜祖二六年正月丙寅)。行長らが平壌撤退にふみきった事情のひとつには、「はんまいぐら(飯米倉)も陣どこも、やきはら(焼払)はれてありければ、はん(飯)米なくてかな(叶)はじ」(「吉野日記」)というまで、明軍による兵糧倉の焼打ちがあったのである。