2018/11/25
2018/11/25(日)
朝9:15別府駅前発の大分交通の観光バスに乗り、次のルートで国東半島を回った。別府駅帰着は夕方5時だった。
バスガイド曰く、昭和5,60年頃、国東半島ブームというのがあって、この観光コースは一日にバス5台が列を作って出発したこともあった。今日は連休最後の日ですから15名もお客が乗っているけれども、平日はお客が一人とか二人とかの日も多く、さびしいこと限りがない。
Wikipediaによれば、「全国に約44,000社ある八幡宮の総本社である。石清水八幡宮・筥崎宮(または鶴岡八幡宮)とともに日本三大八幡宮の一つ。」
建築構造上では八幡造りだというのだが、ここは今訪れても有難味がまったくありませんね。昔、飢饉や伝染病が猛威を振るって、民衆が「神頼み」以外に方法がないと思っていた時代には、有難い神の采配を願って人が押し掛けたのでしょうが、伝染病が医学の進歩で取り払われ、過去に飢饉の経験も持ち合わせなくなった今の民衆には、この神社が過去にもっていた威厳はどこかに飛んでいってしまったのでしょう。
画像:1928年の宇佐神宮鳥瞰写真
こういう不埒な輩がお参りにくると、神は小吉の御籤しか与えないのです。そういえば、最近の神社の御籤は「凶」が無くなっていますね。不信心者にも神は甘くなってしまっているようです。
外回廊の上から八幡造りの棟が二つ顔をのぞかせています。
弥勒寺(宇佐神宮の神宮寺)
県立歴史博物館が作成したミニチュア・モデルに見る明治維新以前の弥勒寺の在り姿は:
(寺跡説明板から)
弥勒神宮寺の成立
宇佐神宮関係の史料によれば、725年に八幡神を現在の小椋山に移したとき、東方の日足の地に弥勒禅院を建てたことが記されています。また、738年に金堂・講堂を建立しており、このころ着手して奈良時代に完成したものと考えられています。
西参道の南側に寺跡の中心遺構が保存されています。発掘調査によって金堂・講堂を南北中軸線上に配し、金堂の前面に東西2基の塔を並べた、いわゆる薬師寺式の伽藍配置であることが確認されています。境内全域の規模は、東大門と西大門の間で約150m、南北もほぼ同じ長さであったと推定されます。
注:738年とは天平10年のこと。聖武天皇の治世。
Wikipedia「聖武天皇」によれば:
天平年間は災害や疫病(天然痘)が多発したため、聖武天皇は仏教に深く帰依し、天平13年(741年)には国分寺建立の詔を、天平15年(743年)には東大寺盧舎那仏像の建立の詔を出している。
写真:歪んでいて申し訳ないが、寺跡の説明板
明治維新のとき廃仏毀釈により弥勒寺は完全に破壊されたので、域内に残る寺跡は:
本尊が阿弥陀如来ですから、普通は阿弥陀堂と呼び慣らすものですが、富貴寺の場合は大堂(おおどう)と呼ぶのです。12世紀に建てられたこの平安建築は、もともと阿弥陀仏を祀る阿弥陀堂だったのでしょうが、神仏習合の信仰形態をもつ宇佐八幡(宇佐神宮)と関係の深い土地であり、宇佐神宮の神宮寺である弥勒寺(天台宗)の傘下に入ったものと推定されます。(参照)だから、呼び名も大堂ということになったのでしょう。大堂のなかの阿弥陀如来を中心とする堂内の彩色は、23日に訪ねた県立歴史博物館に再現されていることは、すでにご報告したところです。
境内は晩秋の紅葉で風格のある美しさ。
画像:
堂内は撮影禁止のはずなのですが、ネットを検索したら、どういう訳か、この映像が入り込んでいました。この薄汚い堂内を建築当初の色彩まばゆいものに作り替えることは、多くの学者による多大の尽力が投入されたはずだと考えて、敬意を表したく思います。古色の保存も大切でしょうが、建築当初の優美な芸術価値を復元することも、それに倍する価値があるように思います。
写真:大分県立歴史博物館内に復元された大堂内部。
11月12日に訪れた白水阿弥陀堂と同時代の作品で、宇治の平等院、平泉の中尊寺と同じく、末法思想浄土信仰を表現するものだったのですが、このように優美に復元されると、現実感が加わって、「有難い」気持ちになりますね。だから、このお堂と県立歴史博物館の復元モデルと対にして考えなければなりません。
周囲の佇まいもしっとりと落ち着いていますね。